なつのおやこたんけんたい

2017年08月05日
 桑谷キャンプ場の取材兼レジャーでは、桑谷山のほかにもうひとつオプショナルレジャーを入れたいという女性取材記者の企画により、近くにある三丈ヶ滝にも行ってみましした。ここにあります。



 この滝のことは先のブログ(→●□)で触れているほか、同じく「岡崎ルネサンス<“〇にナる”岡崎まちものがたり」に8/1にアップされた女性取材記者の担当記事「岩槻信治と岡崎の盆踊り唄」(→●□)にも書かれています。この滝は地元でも長く忘れ去られていたのですが、昭和6年に矢作出身の岩槻三江が作った「龍ヶ谷音頭」の歌詞に出てくる三丈ヶ滝は今どうなっているのか?と「岡崎まちものがたり」の龍谷学区の編集委員の皆さんが探しに行き、“再発見”したものです。
 桑谷キャンプ場から歩くと30分以上かかりそうなので、車でぴゃーっと滝の入口へ。林道沿いに立つ導入カンバンが目印です。

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 おーっと、いきなり川口浩探検隊の様相だ!この奥に本当に滝なんてあるのか?それ以前に、こんなところに突入して大丈夫なのか?

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 と思ったら草ボウボウなのは最初だけで、やがてチョロチョロ流れる沢に沿っていちおう道らしいものが現れました。進むほどに勾配が急になり道も悪くなりますが、かまわずどんどん歩くこと10数分、突如、眼前に滝が姿を現した!

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 シブい、シブすぎる!

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 剝き出しになった垂直の岩盤の上を一筋の水がチョロチョロと流れ落ちています。実に味わい深い。雨が降った後はもう少し水量も多いかもしれませんが…。

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 滝の上に頑張って登ってみるとけっこう迫力があって驚き。探検気分で高揚しているためか、6歳児もビビリを克服だ!

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 ただし、滝への登り道はこのようにかなりワイルドですので、子連れで行こうという酔狂な方はほどほどのところで…。
(まさ)
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新幹線見物名所0004

2017年08月01日
 もう二ヶ月もたってしまいましたが、6月アタマに取材&家族レジャーで、岡崎市南東部にある桑谷(くわがい)キャンプ場にて二泊三日のキャンプをしてきました。何の取材かというと、岡崎市のシティプロモーションサイト「岡崎ルネサンス」内のコンテンツ「“〇にナる”岡崎まちものがたり」といブログ用の記事です。
 「岡崎まちものがたり」というのは、2015~16年度にかけて岡崎市制100周年記念として作成された全学区の紹介冊子集でして、これに編集・進行管理スタッフとして携わったメンバー(ウチら夫婦もその一員)が取材執筆するスピンオフが「〇にナる」です。
 ブログの立ち上げが夏休み目前の7月1日で、竜谷学区の担当だった女性取材記者(まり)が学区内にある桑谷キャンプ場レポを企画・執筆した次第。その記事はこちら→●□

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 で、「桑谷キャンプ場滞在者におすすめするレクリエーション」を記事に盛り込みたいという女性取材記者の意向により、キャンプ場の背後にそびえる桑谷山に登るハメになりました。桑谷山は三河湾スカイラインを使えば割と簡単に頂上に達することができ、登山には特に興味のない私には車で行けるところをわざわざ歩いて登る意味がよくわからないのですが、取材とあっては仕方ない…。ちなみに女性取材記者はもとワンゲル。

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 息絶え絶え、汗ダラダラで1時間かけて山頂に到達すると、そこには昭和な風情の簡素な展望台が。

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 展望台からは蒲郡方面の絶景が!この桑谷山は岡崎と蒲郡の市境にあり、桑谷は岡崎側の山麓にある集落なのですが、残念なことに岡崎側はまったく見えません。

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 でもって遥か下の方には、蒲郡市街を疾走する新幹線が見えるのでした。この時の記事(→●□)の場所より、もっと上の方から見る形になります。我が家は新幹線の近くにあるためビュンビュンすっ飛ばしていく様は見飽きており(→●□)、高い所から見る新幹線はなんというか、下界の民のためのセカセカした乗り物という感じに見えていいものですネ!

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 キャンプを打ち上げた翌日の午後遅く、桑谷山の西に連なる遠望峰山にある「天の丸」の風呂に入りに行きまして、その駐車場からの眺めもよかった。写真は幸田町の中央部を見下ろしたもので、水が張られた水田がちょうど、明治初期まであった菱池(→●□)のようになっています。

 「〇にナる”岡崎まちものがたり」で僕が書いた記事はこちら→●□
(まさ)
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ミス・タイガー

2017年07月29日
 春夏秋冬叢書「そう55号」連動ネタ。というか、取り上げようかどうしようか迷ってボツにしたネタ。
 地名探訪では豊川市の当古を取り上げましたが、最後までどっちにしようか悩んだのが岡崎市の古部(こぶ)です。山間部の河合地区の奥のほうにある集落です。小学校の学区でいうと生平学区。



 さほど地形的な険しさのない岡崎では、山あいの村であってもたいてい別の集落に抜けられる道があるものですが、男川の支流の最奥部に位置する古部は、珍しいどん詰まりの集落。岡崎で完全にどん詰まりの集落はここのほかに、山を挟んだ切越と、旧額田町の雨山ぐらい。

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 この古部の地名由来が平成11年に刊行された河合地区の郷土誌に載っています。それによると「古い郡衙(古代の役所)の所在地で、古府が転じて古部になったという説」があり、また「飛鳥時代に北野廃寺を建設する時、その核となる頭脳者たちの居住地兼研究所があったのではないかとする説もある」と。
 うーむ、いくらなんでもそれは突飛なのでは…。僕は単純に、村の周囲の山々が瘤みたいにボコボコしていたからこの地名になったんじゃないかと思います。
 この集落は、一部のマニアにはけっこう知られているのではないでしょうか。古部の子供が通う生平小学校に「二宮金次郎と思いきやまったく関係ない女性だった」像があり、以前テレビでも放映されていたのですが、「とら」という名のその女性が古部の生まれで、古部にも小学校と同様の石像があるのです。

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 これが集落の中ほどにある「孝婦とら」の像。台座には昭和53年建立と記されています。背中に薪を背負った姿は金次郎像そっくり。

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 ただし顔は女性である。
 前出の郷土誌によると、孝婦とらは江戸時代中ごろの人。親孝行な娘で、病で働けない父に代わり、幼い頃より山で拾った薪を一人で岡崎の町まで売りに行っていたという。その苦労を見た人が、病に苦しむ父のためにと薬を届けたところ、父がしばし苦痛を忘れるほどに効いた。その薬は14里も離れた池鯉鮒で売られているものと聞いたとらは、一日おきに薬を買いに出掛け、父に与えた。なんて孝行娘なんだ!と岡崎城下で評判になっていたのをたまたま岡崎に来ていた巡検視が耳にして薬代を与え、のちに岡崎城主に報告すると城主からも褒章が与えられた…。

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 とら像からすこし登った所には、享保18年(1734)に建立されたとらの顕彰碑「孝婦碑」もあります。見事な太文字に、神様でもないのに祠のような立派な屋根付き。背面にはとらの孝行っぷりが漢文でびっしり。たいへん尊敬されていたことがよくわかります。
 ちなみに古部からは、のちに「孝子佐左衛門」「孝子浅右衛門」という孝行者が現れ、ともに領主より米三俵白銀二枚が与えられたと、郷土誌に書いてあります。とらの逸話が村人たちにいい影響を与えたのでしょう。古部はまさに「親孝行の里」。
(まさ)
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カンバンの手帖ブログ版0352

2017年07月26日
 春夏秋冬叢書「そう55号」連動ネタ。
 毎号やってる「地名探訪」では、古の付く地名として豊川市の当古(とうご)を取り上げてみました。当欄はキーワード縛りの都合上、マイナーな集落をピックアップせざるをえないことが多いのですが、今回は姫街道の豊川渡河点にある集落ってことで、比較的知られたところではないかと思います。そうか?

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 豊川右岸堤防からみたガラス温室&当古の家並&本宮山。

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 堤防を下りて家並の中に入り込むと、セコというには広すぎる細道がうねうねと入り組んでおります。シブい、シブすぎる!なお、この写真の見どころは、槇の生け垣・コンクリート板・コンクリートブロックと「東三河の農村でよく見られる塀の様式三種類」がぜんぶ写り込んでいることです。
 で、取材のために集落内の旧姫街道を久し振りに徘徊してみたところ、廃商店にこのようなものが残されているのを発見。

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 商業団体加盟店の行燈型カンバンだ!その名も「豊川たのしみ会」。“お”を付けていないところがまたなんとも昭和的で、そのストレートな名称にグッとくるのは僕だけではないはず。僕だけ?

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(2003.09.04。下も)

 以前、これと同類のものに旧一宮町で遭遇したことがあります。砥鹿神社門前にあった大門屋という酒屋さんで、一宮町商工会の「おたのしみ会」のカンバン。大黒さんのロゴ(?)が超絶シブい。

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 この「おたのしみ券」の現物なんてどこかに残っていないだろうか。そういうものも、もうそろそろ資料的価値が出てきそうな時代。
(まさ)

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瀬古サンプル

2017年07月21日
 春夏秋冬叢書「そう55号」連動ネタ。
 先述のとおり渥美半島には「○○瀬古」という小字が40ほどありますが、中でももっとも分かりやすいのが旧渥美町・泉地区にある内陸の小集落、馬伏(ばぶし)。



 ご覧のとおり、人家密集地は「中瀬古」「西瀬古」「東瀬古」とキレイに分かれています(ドラッグすると東瀬古も出てきます)。
 幹線道路からやや離れたこの集落は、東三河フリークを自称するわたくしもこれまで気に留まったことがなかったので、カメラマンAさんと昨年9月に渥美半島の瀬古を巡った際、いい機会なので行ってみました。

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 中瀬古である。

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 西瀬古である。

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 東瀬古である。うーん、シブい、シブすぎる!
 あまりの渋さにカメラマンAさんも、どう撮ったらいいものかと苦慮しておられました。この企画については、僕の担当は文章だけなので気楽なもんです。なお、ここで撮影された写真は本誌に掲載されておりません。
 ところで、地図を見ると分かるように西瀬古と中瀬古はほぼ正方形の区画が三つ並んでいます。実際に歩いてみると、ド農村なのになんだか妙にスッキリ感があって実に不思議。僕もかなりの集落に足を踏み入れていますが、こんな奇妙な感覚になる農村は珍しい。
 歩いているときたまたま出会った元教員の方によると、ここは明治時代に区画整理が行われた先駆的地域とのこと。へぇ~!

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 村をウロウロしていたら立派な銅像に遭遇しました。この人は大久保作吉といい、大正13年に旧渥美郡泉村に酪農を導入し発展させた郷土の偉人です。
 ネットで拾った「泉校区まちづくり推進計画書」によると、明治41年に作吉さんの指導により「集落移転と宅地整理事業が行われ、平均化された宅地(1戸当たり8畝)の造成と道路の拡幅が実現し、現在の地区の骨格が形成」されたとのこと。といこうとは、その時に瀬古の付く小字を制定したことになります。実にシブく、興味深い話ではないですか。そう思うのは僕だけ?もうちょい突っ込んで調べてみたいネタですので、詳しいことはいずれまた…。
(まさ)

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東三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)
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