アターシャ&世古ビッチ

2017年07月04日
 春夏秋冬叢書「そう55号」連動ネタ。
 今号では旧知のカメラマンAさんと組んで、東三河の「セコ(世古・瀬古)」をひたすら巡ってみました。セコというのは基本的に「狭い道」という意味で、主に東三河南部、知多半島南部、伊勢志摩あたりで使われている言葉です。意味の通る漢字を当てると「狭処」になり、ケチ・ズルい・下手などを意味する「セコい」とは語源が違うので念のため。

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(蒲郡市三谷)
 
 このような、家と家の隙間に通じる車が入れない狭い道のことですね。もはや年寄りでないと分からない言葉かもしれません。三河方言のひとつではあるのですが、地名や方言の辞典を見ると茨城や愛媛でも同じ意味で使われているらしく、こういう場合は方言としていいかのか門外漢には分かりかねますが…。
 ただ、東三河でも渥美半島に行くとニュアンスが異なり、「小集落」「コミュニティの単位」の意味がある…というようなことを記事では書いております。詳しくは本誌を買って読んでください。

 で、本誌ではセコ概論を書いただけで規定の文字量に達してしまい、おすすめスポットに言及する余地がなかったので、ここで紹介します。東三河を隈なく歩き回ったマニアがおすすめする最大のセコタウン、それは蒲郡市の形原だ!

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 セコ道じたいはどこの町や集落に行っても見つけることができますが、味わい深さ・密集ぐあい・迷い込んで楽しめるかどうか等の観点で見ると、意外に「これぞ!」というのがありません。その点、形原のセコ群はまるで迷路のように入り組んでおり、いい塩梅のセコ坂道が多く、景観的なバリエーションも多彩で、実にレベルが高い。

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 黒板壁に挟まれたセコ。

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 海がチラッと見えるセコ。

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 製綱工場の脇を通り抜けるセコ。

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 そして名鉄蒲郡線沿いのセコ。ここは高台を掘割でぶち抜いたためにセコが線路で寸断されてしまったところで、セコ坂はその代替ルートとして付けられたようです。
 以前、飛騨金山が路地めぐりで売り出し始めたことを書きましたが(→●□)、いずれ形原でもセコが地域おこしに活用される…なんてことは、あまりにシブすぎるのでたぶん難しいでしょう。
(まさ)

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オールドキャッスル

2017年07月02日
 発刊からだいぶ経っておりますが、春夏秋冬叢書「そう」55号が発売中です。今号のキーワードは「古」。私は例によって「地名探訪」「三遠南信産××育」に加えて、東三河方言のひとつ「せこ(世古・瀬古)」と飯田線長篠城駅の前名の「長篠古城趾駅」の文章を、女性取材記者(まり)は飯田市の飯田高校にある日本最古の現役ピアノを担当しています。
 私の書いた記事のひとつ「長篠古城趾駅」は、開設の経緯を探ってみたら意外なドラマがあった、という内容です。

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 詳しくは本書を買ってご覧いただきたいのですが、要点は以下のとおり。

◎大正時代、忠君の手本たる鳥居強右衛門を顕彰する機運が地元で高まっており、関連する重要史跡である長篠城跡を横切る鳳来寺鉄道の敷設工事対して反対運動が起きた
◎それに対して鳳来寺鉄道は「スンマセン、城跡の近くに駅を作らせてもらいますんで…。あと、本丸土塁を壊すのは最小限にとどめますんで、どうかひとつ…」と地元と覚書を交わした

 つまり長篠城駅は、バーターで生まれた駅だったのである!
 とはいえ、鉄道側は観光客誘致のために最初から駅を置くつもりのところ、横槍が入ったんでこのタイミングで話を出して反対の声を収めた、という可能性もありますが…。

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 でもって覚書を交わして工事した結果、このような形状になったと。最小限といっても合理的に考えればこのルートで線路を敷くしかないわけで、本丸土塁がざっくり切り取られています。
 手前の踏切は旧駅名を思わせる「古城跡踏切」という名称。これを渡ると野牛郭跡を経て寒狭川・宇連川合流点の川岸まで下りられます。

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 ちなみに、開通当時のこのあたりの様子を写した絵葉書が、近くにある医王寺(武田勝頼が本陣を置いたことで有名な寺)の資料室に展示してあります。さらにちなみに医王寺には民具等の収蔵庫もあり、そこには豊鉄田口線三河大草駅の駅名標も保管されているのでマニアは必見!

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(1995.04.18)

 古い絵葉書を出したのでオマケ、開業以来の駅舎があったころの長篠城駅も。
 鳳来寺鉄道に対する反対運動の経緯については、長篠城址史跡保存館元館長の山内祥二さんが編集された「報告書 丸山彭の世界‐初代館長の二十年‐」という労作に詳しく書かれてて非常に面白いので、興味のある方は新城の図書館あたりでぜひご覧ください。
 あと、鳥居強右衛門に関してはこちらも→●□●□

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三面モンキー

2017年04月14日
 三猿といえば、下野庚申堂の少し前に行った蒲郡市三谷の八剣神社でも三猿像に遭遇しました。

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 拝殿の東側に、昔の工場みたいなセメント製(?)の巨大な塀があります。最初は、この神社らしからぬ風情の建造物に目を奪われました。

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 で、塀をじっくり観察しようと思って近付いてみると、その端に何やら石造物が。

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 これがなんと三猿なのでした。なんでまたこのような場所に…。

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 よく見ると、見ザル言わザル聞かザルが背中合わせになった一体の像です。しかも塀の幅にピッタリの小ぶりなサイズ。塀とセットで作ったとしか思えません。
 この下のほうに取り付けてあった銘板によると塀の建造は昭和12年で、60人ほどの奉献者の末尾に「石匠 今井元治」という名が見えます。この人が、塀を建てたついでに自作の三猿像を奉納したのでしょうか。
(まさ)
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三河 de 出雲

2017年04月04日
 春夏秋冬叢書「そう」54号連動ボツネタ。豊川よりさらにもうひとつ「子」の付く地名。

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 院之子のすぐ南西、豊川放水路に面した集落、柑子町です。「こうじ」と読みます。どういうつもりでコウジにこの漢字を当てたのか、まったく不明。豊川の郷土誌によると柑子の西に条里制水田があったといいいます。田んぼの形が格子状だったので、それが転じて柑子になった…くらいしか思いつきません。
 この集落の氏神は、東三河では珍しい「出雲神社」。資料によると「三河国造の大祖を祀る社」だったらしい。ここから北西約5kmの国府にある大社神社の起源が「三河国司の大江定基卿が出雲国大社より大国主命を勧請した」ということなので、何か関係があるかもしれません(ないかもしれません)。
 
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 その出雲神社はなかなかのインパクト。折れた標柱が「出雲」の文字だけ見えるようにして地面に差してある!そして鳥居の前には立派な門柱が!
 雲が出づるごとくいろいろ謎が湧き出てくる集落と神社ですが、余力がないので詳しい調査&考察はまたいつか…。

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 ついでに、柑子町付近の堤防から豊川放水路の分流点を久々に見物。水制として川の中に設置された杭が立ち並ぶ様がなかなか味わい深くて…と、ここでも共感を得られなさそうなことを思うのであった。
(まさ)
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プリンス・トヨガワ

2017年04月01日
 共感を得られにくい風景ばかりでもなんなので、院之子の名所なども。

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 この界隈で最大の見ものといえばコレ、霞堤の遺構。霞堤とは、詳しく書くと長くなるので各自検索してください。院之子を囲むこの小ぶりな堤防は実に雰囲気がよくて視界も良好、農村景観を鑑賞するにはもってこい。

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 続いての見ものは、天白社と長光寺。塀を挟んで隣り合い、それぞれの境内に見事なイチョウが聳え立っています。豊川市のイチョウといえば大和の大イチョウ(→●□)が有名ですが、こちらもなかなか。
 えー、院之子の名所は以上です。

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 天白社の片隅にはなぜか腕用ポンプが放置してありました。一部マニアにはこれも見どころかと…。
 ちなみに僕が10年チョイ前に所属していた揖斐川町消防団では、出初式で伝統的な階梯操法(ハシゴに登るヤツ)と腕用ポンプ操法を披露するのが慣例で、僕も腕用ポンプの漕ぎ手をやらされたことがあります。垂直に差し込んだ太い木の棒を何人かでギコギコ漕いで放水するのですが、メチャクチャ重くてなかなか水が出ないうえに操法としては動きが地味すぎ、派手な階梯操法に観衆全員の注目が集中するもんで「コレ、やる意味あるの?」と思ったものでした。
(まさ)
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