何も無い所にあるもの

2017年09月21日
 春夏秋冬叢書「そう」56号連動ネタ。
 旧渥美町には無縁堂のほかにもうひとつ無地名で、和地町に「大無所(おおむしょ)」という小字があります。場所は集落の北東外れ。和地と福江を結ぶ県道420号沿いのごく狭い範囲を示す地名です。



 地元民以外はどこだかさっぱりわからないと思います。まあ、三河で無の付く地名はそんなところばかりですが…。

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 人家は一軒もなく、あるのは山の麓の畑だけ。文字どおり「おお!何も無い所!」という感じ。何も無いからこんな地名が付いたのかと一瞬思わせます。
 が、実のところ由来は不明。記事でも少し触れましたがムショ/ムショウ/ムシュウ地名は全国に分布しており、渥美半島には神戸に大無生(おおむしょう)があり、本誌のエリア外ですが磐田市(旧豊岡村)には虫生(むしう)があります。「ムショ」は墓を意味するとも言われ、また「ムシ=毟る(むしる)から崩壊した場所か?」と説明する地名辞典もありますが、現地へ行ってもそれらの説はいまひとつピンときません。
 たぶんまだ誰も本当の意味を解明していないと思われるので、ヒマで何もすることがない人は全国のムショ系地名を巡って謎の解明に挑戦してみてはいかがでしょうか(投げやり)。

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 何も無いとか言いながらも何かしらはあるもんで、大無所では県道に架かるこの立派な(?)橋が目に留まりました。昭和5年架橋の鉄砲橋。

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 簡素ながらも親柱や欄干のデザインが凝っているコンクリ橋です。たいして交通量が多くない県道にこんな重厚な造りの橋があるとは、この道がかつて「表裏連絡道路」としてそれなりに重要視されていたことの証明かもしれません。なお、表裏連絡道路とは表浜と裏浜をつなぐ道の意味で、今思い付きました。

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 大無所に隣接する字上大道にある三島神社もなかなかの味わい。拝殿の前に低い石垣と門が設けられています。詳しいことは調べていませんが古い形態に思えます。こういう神社もそんなにないのでは。

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 あと、参道に置かれたカウンター付き百度石。お百度参りをするとき、枠の中の玉を使って何回参ったか数えるもの。これはちょくちょく見かけます。

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 で、三島神社の門前には電話ボックスが。いつ、誰が利用するんだ!
(まさ)

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無縁堂の無縁者さん

2017年09月19日
 春夏秋冬叢書「そう」56号が発売中です。今号のキーワードは「無」。私は例によって「地名探訪」「三遠南信産××育」をやっております。
 今号の地名探訪は無の付く小字がやたらと多いため、拡大版になっています。オーソドックスに地名の由来を現地に行って考察する「無之地」のほかに、調べてみたら意外に話題が広がった「無縁堂(田原)」と「無知押(設楽)」の三本立て。このうち無知押は、文章が女性取材記者(まり)で写真がわたくしという、何年かぶりの夫婦合作に…。
 さて、数ある三河の無地名の中でもっとも強烈だったのが、田原市中山町の小字、無縁堂。何がすごいかというと、この小字には墓しかないのである!



 中山の村はずれの、畑の中に区切られた狭い一角が字無縁堂になります。航空写真でもご覧ください。

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 無縁堂というくらいだから、最初は無縁仏を祀る場所かと思っていたら、中山地区の共同墓地でした。

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 周囲にはキャベツ畑や菊のハウスが広がっており、実に旧渥美町らしい景観です。これまでも地域性に富んだ好ロケーションの墓地景観をいくつも見てきましたが、渥美半島においてはここが最たるところではないでしょうか(オオゲサ)。
 本誌に記したとおり地名の由来は不明なのですが、ここに先祖代々の墓がある中山在住の知人によると、昔からこの墓地にいくつかある無縁仏の墓を「無縁者さん」と呼んで、何軒かが分担して世話をしているそうな。本誌には載せられなかったその無縁者さんの墓のひとつがこちら。

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 コンクリートブロックで囲った区画がなかなかの味わいですが、どれも墓石一基につき水と花が手向けられ、手厚く祀られています。話を聞いた方によると、墓参の際には必ず自家の墓と無縁者さんの墓に手を合わせていくといい、「あまりに当たり前にやっていることなので、無縁者さんのことを深く考えたことはなかった」とのこと。この方の家は村を開いた一族の末裔にあたるそうで、おそらく何世代も前から受け継がれている風習なのでしょう。

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 中山の写真が墓地だけではなんですので、無縁堂から徒歩1分のところにある神明社の写真でも…。
(まさ)

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ミドルセコ

2017年08月08日
 春夏秋冬叢書「そう55号」連動ネタ。もう一つセコ話。
 東三河のセコで唯一町名になっているのが、豊橋市の中世古町。ここです。



 本来はもっと大きく取り上げたいところでしたが、ごくありふれた住宅地なので絵になる写真が撮れそうになく、また、全域が区画整理されてて味のあるセコ道も残っていなので、今回はさらっと本文で触れた程度にとどめました。

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 中世古は豊橋の市街中心部の一角にありますが、東海道吉田宿の24町には含まれていません。「角川日本地名大辞典23愛知県」によると、この地名が登場するのは明治28年。もともとは東海道筋の曲尺手町から南に伸びる「猿屋セコ」沿いに家々が集まった地域で、明治後期に町名を整理した際に中世古と命名されたようです。
 ならば「猿屋世古町」や「猿屋町」にすればよさそうなものですが、なぜか伝統地名は採用されませんでした。サルじゃイメージ的にちょっとどうか…という意見が地元から出たのかも。では、なぜ「中」世古なのか?

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 中央図書館で「吉田宿東海道筋町別地図」を見て、ひとつの説が思い浮かびました。
 吉田宿には何本ものセコ道があり、それぞれに名が記されているのでですが、宿場町東部の三つのセコ「龍拈寺セコ」「猿屋セコ」「談合宮セコ」は、セコといいながらいずれも一間(=1.18m)以上あってけっこう広く、宿場町の中で存在感が際立っています。で、その「吉田宿の三大セコ道」の真ん中に猿屋セコがあることから、「中世古」と名付けたのではないかと…。
 由来を書いてある資料を見たことがないので正しいかどうか不明ですが、もし理由を知っている人がいたらぜひご教示ください。

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 かつての猿屋セコに相当する道は区画整理で消滅してしまいましたが、町内に一ヵ所、このような不自然な鉤型の細道が残されています(地図の「中世古公園」のところ)。なにかいわくがありそうですが…。

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 中世古町内の見どころは並んで建つ二つの寺。そのうちのひとつ、真言宗の清宝寺には四国八十八ヶ所霊場の写しがあり、弘法大師&各寺本尊像が雛壇にずらっと安置されてて圧巻です。
(まさ)

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カンバンの手帖ブログ版0352

2017年07月26日
 春夏秋冬叢書「そう55号」連動ネタ。
 毎号やってる「地名探訪」では、古の付く地名として豊川市の当古(とうご)を取り上げてみました。当欄はキーワード縛りの都合上、マイナーな集落をピックアップせざるをえないことが多いのですが、今回は姫街道の豊川渡河点にある集落ってことで、比較的知られたところではないかと思います。そうか?

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 豊川右岸堤防からみたガラス温室&当古の家並&本宮山。

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 堤防を下りて家並の中に入り込むと、セコというには広すぎる細道がうねうねと入り組んでおります。シブい、シブすぎる!なお、この写真の見どころは、槇の生け垣・コンクリート板・コンクリートブロックと「東三河の農村でよく見られる塀の様式三種類」がぜんぶ写り込んでいることです。
 で、取材のために集落内の旧姫街道を久し振りに徘徊してみたところ、廃商店にこのようなものが残されているのを発見。

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 商業団体加盟店の行燈型カンバンだ!その名も「豊川たのしみ会」。“お”を付けていないところがまたなんとも昭和的で、そのストレートな名称にグッとくるのは僕だけではないはず。僕だけ?

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(2003.09.04。下も)

 以前、これと同類のものに旧一宮町で遭遇したことがあります。砥鹿神社門前にあった大門屋という酒屋さんで、一宮町商工会の「おたのしみ会」のカンバン。大黒さんのロゴ(?)が超絶シブい。

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 この「おたのしみ券」の現物なんてどこかに残っていないだろうか。そういうものも、もうそろそろ資料的価値が出てきそうな時代。
(まさ)

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瀬古サンプル

2017年07月21日
 春夏秋冬叢書「そう55号」連動ネタ。
 先述のとおり渥美半島には「○○瀬古」という小字が40ほどありますが、中でももっとも分かりやすいのが旧渥美町・泉地区にある内陸の小集落、馬伏(ばぶし)。



 ご覧のとおり、人家密集地は「中瀬古」「西瀬古」「東瀬古」とキレイに分かれています(ドラッグすると東瀬古も出てきます)。
 幹線道路からやや離れたこの集落は、東三河フリークを自称するわたくしもこれまで気に留まったことがなかったので、カメラマンAさんと昨年9月に渥美半島の瀬古を巡った際、いい機会なので行ってみました。

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 中瀬古である。

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 西瀬古である。

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 東瀬古である。うーん、シブい、シブすぎる!
 あまりの渋さにカメラマンAさんも、どう撮ったらいいものかと苦慮しておられました。この企画については、僕の担当は文章だけなので気楽なもんです。なお、ここで撮影された写真は本誌に掲載されておりません。
 ところで、地図を見ると分かるように西瀬古と中瀬古はほぼ正方形の区画が三つ並んでいます。実際に歩いてみると、ド農村なのになんだか妙にスッキリ感があって実に不思議。僕もかなりの集落に足を踏み入れていますが、こんな奇妙な感覚になる農村は珍しい。
 歩いているときたまたま出会った元教員の方によると、ここは明治時代に区画整理が行われた先駆的地域とのこと。へぇ~!

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 村をウロウロしていたら立派な銅像に遭遇しました。この人は大久保作吉といい、大正13年に旧渥美郡泉村に酪農を導入し発展させた郷土の偉人です。
 ネットで拾った「泉校区まちづくり推進計画書」によると、明治41年に作吉さんの指導により「集落移転と宅地整理事業が行われ、平均化された宅地(1戸当たり8畝)の造成と道路の拡幅が実現し、現在の地区の骨格が形成」されたとのこと。といこうとは、その時に瀬古の付く小字を制定したことになります。実にシブく、興味深い話ではないですか。そう思うのは僕だけ?もうちょい突っ込んで調べてみたいネタですので、詳しいことはいずれまた…。
(まさ)

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