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カンバンの手帖ブログ版0402

 春夏秋冬叢書「そう」64号連動ネタ。
 この「カンバンの手帖」は、「そう」の巻末に設けられている本誌参加メンバーの雑記コーナー「街頭録音」で、僕がやっている自主企画のカンバンネタ連載のタイトルです。そうの方が開始が早く、いわば本家。こちらは後発なので「ブログ版」と付けています。で、今回のカンバンは本家の方との連動。
 落目の撮影や森林鉄道の廃線跡を見物したのち、情報収集のために設楽町役場&設楽町民図書館(→●□)へ行ったのですが、三都橋から田口方面へ向かうには、国道420・257号を走るよりも、田峯の中心部(→●□)を経由する町道のほうが早いので、そっちの道を通りました。すると三都橋からの道すがら、田峯の集落に入る少し手前でこのようなカンバンに遭遇。

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 戦国時代、田峯城内で起きた惨殺事件で殺された人たちを首の晒した場所だそうです。なんか怖そうな場所なのになぜかポップな書体で、しかも英訳付きというウェルカム感(まさかインバウンド対応?)。これは行かずにはおれません。
 しかし、その先には恐ろしいものが待っていた…。

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 沿道には「首塚地蔵尊」の古びたカンバンが転々と!

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 村道から3分ほど歩いて、首塚に到着。

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 その塚の脇には「首塚地蔵尊」のカンバンが晒し首のようにズラリ!

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 一角には無残に打ち棄てられた「首塚地蔵尊」のカンバンが!怖い、怖すぎる!この手の場所は山奥をウロウロしているとよく出くわすので昼間ならそんなに怖くはないが、カンバンで恐怖を感じたのは生まれて初めてである。

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 以下、首塚の案内板より。

田峯城内乱の首塚
 城主菅沼定忠(小法師・新三郎・刑部少輔)は天正三年(一五七五)長篠合戦に敗れた武田勝頼を一旦休息させるため田峯城へ案内した。しかし留守居の将である叔父菅沼定直と次席家老今泉道善(孫右衛門)等は城門を堅く閉ざし開けようとせず、仕方なく勝頼を導き武節城に遁走した。その後飯田に逃れて一年を経過する。
 翌、天正四年(一五七六)七月十四日未明、菅沼定忠主従は自分の城である田峯城を急襲し前年の遺恨やるかた無く、老若男女幼少を問わず、手当たり次第に九六名を惨殺する。中でも首謀格の今泉道善(手習いの師匠)の生首を鋸で引き落とすとい常軌を逸する殺害をおこなった。
 主だった者の首をこの作手街道の辻に晒した。いつの頃からかこの場所を首塚と呼ぶようになった。
 現在ここには五輪の塔等が二〇基あるが、それが誰の為のものであったか定かでない。石塔の型式上では戦国時代から江戸時代前期にかけてのものと思われる。

(設楽町が建てたものと思われるが設置者・文責者の銘および設置年は未記載)

 もしかするとこのおびただしい数の「首塚地蔵尊」のカンバンは、惨殺された数と同じ96枚なのでは…。
(まさ)

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コメント

ナオ

首塚カンバンだらけ
確かにはじめてのこと。おそがい。

まさ

量の恐怖。
非公開コメント

MARUKA-DO

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東海地方を縦横無尽、
全国各地に神出鬼没の
取材・執筆・編集事務所。
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まさ…岐阜・揖斐川町出身
まり…愛知・尾張地方出身
2003~2019愛知県知立市在住
2019~岐阜県揖斐川町在住

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