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矢作かわらタワー

 先日、岡崎のシティプロモーションサイト「岡崎ルネサンス」内のコンテンツ「“○にナル”岡崎まちものがたり」に、北野廃寺についての紹介記事を書きました。そこでは文字数の制限もあって、史跡の概要と9/16に開催されるイベントの紹介くらいしかできなかったので、書ききれなかったネタを。
 北野廃寺は愛知環状鉄道北野桝塚駅の近くにある古代の巨大寺院の跡で、昭和4年に国の史跡に指定されています。明治の終わり頃からたびたび学術調査が行れてきましたが、その中に岡崎の偉人が二人含まれていました。その二人とは、石田茂作と池上年。

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 石田茂作は明治27年(1894)矢作町の生まれで、奈良国立博物館長を務めた経歴を持つ仏教考古学の第一人者。岡崎市の名誉市民にも選ばれています。池上年は以前ここで少し触れたことがありますが(→●□)、岡崎の石製品の美術性の向上に尽力した美術教師・研究家です。その功績からすれば、二人とももっと語り継がれるべき人物と思うのですが、現在はあまり話題になることもありません。

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 石田茂作が著した「三河北野廃寺址の仏教史蹟としての価値について」によると、石田が岡崎師範学校(愛教大の前身)の教員だった大正の終わり頃、岡崎商業学校(現在の岡崎商業高校)の教員だった池上年を誘って師範の生徒たちと北野廃寺の実測調査を行いました。その図は国の史跡として指定される際、内務省の調書に収められています。
 この調査の段階では、石田は「知識も少なく、寺の意義がよくわかっていなかった」と言っていますが、この少し後から飛鳥時代の寺院の研究を全国的に行い、その結果、北野廃寺が飛鳥時代には「東日本随一の寺院」だったと結論付けています。
 そんなふうに北野廃寺を世に知らしめるのに一役買った石田茂作の、あまり知られていない遺品が、矢作町内に残っています。

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 ひとつは石田茂作の母校である矢作東小学校にあり、自身が揮毫した「七凹八凸」の碑。七転び八起きのような意味でしょうか。今年の2月「“○にナル”岡崎まちものがたり」に記事を書くため岡崎市内の学校の全金次郎調査をしたときに遭遇したのですが、このときは金次郎に気を取られ、この碑については突っ込んで調べておりませんでした。

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 もうひとつが、矢作東小のすぐ西側にある「廃瓦塔」なる奇妙な建造物。民家の二階ほどもあるデカいもので、住宅地に忽然と現れるので驚かされます。

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 廃瓦塔という名のとおり、瓦で作られています。
 これは3年前、矢作東学区の岡崎まちものがたりの制作をサポートしていたときに地元の方から聞いて存在を知り、話を聞いてもどういうものなのかよくわからなかったので見に行ったのですが、説明板もないし、見てもさっぱり意味が分からず困惑しきり。
 意味は分からないけど存在感はあり、かといってしっかり保存されているふうでもなく放置されるがままでもあり、見に来たはいいけどどう鑑賞していいのかイマイチわからず、なんかモヤモヤさせられます。

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 先っちょは石である。
 で今回、北野廃寺の記事を書くためにりぶらで資料を漁っていたら、石田茂作が残した「曼荼羅庭園 廃瓦塔の由来」という本を見つけました。それによるとこの塔は昭和49年の建立。仏塔の研究に生涯を費やしてきた自分自身のメモリアルと恩顧ある人たちへの供養として、自らデザインし、自宅を建て替える際に出た廃瓦で建てたものとのこと。何だかよくわからないけれど、こんな不思議な巨塔を建てようという熱い思いが老研究者にあったことはなんとなく伝わってきました。
 こういう知られざる名品(?)をもっと世間に、あるいはせめて岡崎市民に知らしめたいと思うけれど、どうやって原稿にまとめればいいのか考えあぐねてしまう、不思議な塔なのでした。
(まさ)
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MARUKA-DO

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東海地方を縦横無尽、
全国各地に神出鬼没の
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まさ…岐阜・揖斐川町出身
まり…愛知・尾張地方出身
2003~2019愛知県知立市在住
2019~岐阜県揖斐川町在住

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