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のび太の林道

 春夏秋冬叢書「そう58号」連動ネタ。話は八重河内に戻ります。
兵越峠を越え、此田地区を経て、国道152号に合流し、三遠南信道青崩峠道路の工事現場を見ながらぐんぐん下っていくと、やがて八重河内地区の中心部、本村(ほんむら)に辿り着きます。かつてはここに下伊那郡八重河内村役場や八重河内小学校があり、和田(旧南信濃村の中心部)から信南交通の路線バスも通じていました。

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 急斜面にへばりつくような険しい此田とは対照的に、本村は穏やかな川のほとりにあります。写真の場所は小嵐川と梶谷川の合流点。その一方の梶谷川の上流4kmのところにある梶谷(かじや)という集落は未訪だったので、今回初めて行ってみました。本誌のP80-81に見開きで大きく使われている巨石の写真のところです。

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 行こうと思ったら本村で、昭和38年に建立された「記念碑」に遭遇。何かと思えば、梶谷に通じる林道の建設に尽力した人の顕彰碑で、台座にはめ込まれた銅板には、建設の経緯とこの碑の建設のために寄付した団体・個人の名前が彫り込まれていました。碑文というと、読むのを途中で放棄してしまいたくなる難解な漢文が多いものですが、これは小学生にもわかるような平易な文章でありがたい。
 以下、その全文。

鎌倉勘次郎翁と梶谷林道

 延長四粁余のこの梶谷林道は昭和十九年に完成しました。それ以前は巾一米たらずの山道で山林資源の活用にも日常生活にも多くの不便と不安がりました。
 これの打開は道路の開発にあると着目したのが鎌倉勘次郎翁でした。翁はこの事業推進の為に莫大な私財の投入、対外交渉、難工事の指揮等、卒先して献身的な努力を重ねること四年、遂に梶谷林道が完成しました。
 翁は安政五年五月五日、鎌倉萬吉氏の長男として梶谷に生れ、その見識と人柄は村人の信頼と尊敬をあつめていました。翁は生前、学務委員、村議、森林組合長、産業組合理事等、村政に貢献されました。かくて昭和二十一年一月二日、八十九才をもって天寿を全うされました。
 この梶谷林道開発は勘次郎翁なくしては決して出来なかったものであります。私達は翁のこの偉業を讃えると共に、永く後世にその徳を伝えていきたいと思います。
昭和三十八年 秋

(※読点および改行は筆者)

 翁は林道の開通を見届けてから亡くなったようです。

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 翁が情熱を注いだ林道は梶谷川の渓流沿いに続いており、途中、2回前の記事に写真を載せた小瀬戸集落跡の廃屋のほかは何もありません。

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 どこまで続くのか不安になりかけたころ、梶谷集落に到着。しかし、現れたのは屋敷跡の土台と数軒の廃屋。ここも廃集落になってしまったのか?

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 しかし、もう少し奥の高所に、一軒だけ人が住んでおられる家があり、まだ「現役」の集落でした。不在のようだったので話は聞けませんでしたが、いつか勘次郎翁の話を聞きに再訪したいものです。
 なお、タイトルは翁と無関係ですが、このあいだ映画ドラえもん「のび太の宝島」を6歳児と見に行ったので、つい…。


(まさ)

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MARUKA-DO

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東海地方を縦横無尽、
全国各地に神出鬼没の
取材・執筆・編集事務所。
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まさ…岐阜・揖斐川町出身
まり…愛知・尾張地方出身
2003~2019愛知県知立市在住
2019~岐阜県揖斐川町在住

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