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旧東海道の力士像

 記事を書いたKATCHの「近所のはなし」→●□には、一体だけ地蔵でない石造物を出しました。安城周辺に何体も地蔵を寄進した濱碇(ハマイカリ)という安城出身力士の像です。
 この力士の存在は前から知っていました。というのは、JR安城駅前通りに「山口旭薬局」という大きい薬局があり、店名とは別に「ハマイカリ」という屋号が大きく記されているのを見ていたからです。
 近所の商店主に「ハマイカリというもと力士が開業した薬局」という興味深い話を聞いて、そのうち調べようと温存しておいた…いや、完全に忘れていたネタだったのですが、地蔵を探している時に新安城駅近くの旧東海道沿いで濱碇像と濱碇が寄進した地蔵にたまたま遭遇して、何年かぶりに濱碇のことを思い出したのでした。

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 その場所は、このように石造物が密集し、植木に包まれたフシギ空間。右端の御堂にサイトの4枚目の画像の地蔵が収められています。
 濱碇の像は、この敷地の左端(知立寄り)にあります。

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 俵で囲んだ台座の上に仁王立ちする濱碇又七である。力士の顕彰碑は方々で見かけますが、力士像の石像は初めて。

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 後ろ姿である。いい尻である。

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 敷地内には「東京大角力協会清見潟代理目代正 濱碇碑」が建っています。大正三年の建立で、側面には発起人として「東京角力年寄 大嶽門左衛門 武蔵川谷右衛門」の名が刻まれています。
 この碑文および山口旭薬局の現社長がまとめた非売品の小冊子によると、経歴は次のとおり。
 濱碇は安政7年(1860)に当地(里村)で生まれ、本名は畔柳又七。幼少時は父や兄と死別して一家離散するなど苦労したようです。慶応3年(1867)頃から草相撲の仲間に入り、いつの頃からか濱碇の四股名を名乗ります。
 地元で草相撲力士をしているとき、新川(碧南)の料理屋の主人の目にとまり、東京相撲に行くことを勧められます。明治11年、前浜村(碧南)出身の親方、五代目清見潟又市に入門。

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 その清見潟の碑もあります。現在の清見潟親方はもと武州山で、藤島部屋の所属。藤島部屋といえば、豊橋出身で競輪選手富永益男・66期・現A級1班を兄に持つもと武雄山の山分親方がおり、なんだか三河との縁を感じますネ(強引)。
 濱碇は、明治12年1月の春場所に前相撲で土俵を踏み、同年5月の夏場所で西序ノ口23枚目からプロとしてスタート。明治14年1月の春場所では東三段目34枚目まで上がりますが、茨城県での巡業中に大怪我を負い、以後2年間の休場を余儀なくされます。怪我は治ったものの再起は果たせず、明治16年5月の夏場所で廃業。短い相撲人生を終えました。
 で、安城に戻ってセカンドキャリアとして薬売りになるわけですが、長くなったので続きは後日。
(まさ)
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MARUKA-DO

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まさ…岐阜・揖斐川町出身
まり…愛知・尾張地方出身
2003~2019愛知県知立市在住
2019~岐阜県揖斐川町在住

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