飯田の教育

2016年05月25日
 三遠南信の最高峰図書館、飯田市立中央図書館で銀座のことを調べていると、飯田にあった「二本松遊廓」のことが書いてある資料にも出くわしたので、ついでに見に行ってみました。
 場所は市街北側。伝馬町一丁目から東へ伸びる中之町の通りをずんずん進んだ突き当たりで、住所表記でいうと「飯田市二本松」の区画がそのまま遊廓跡になるようです。

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 飯田は河岸段丘上の緩い傾斜地に市街地が広がっていますが、二本松が位置するのは丘の外れ。なるほど、の立地です。街路はほぼ往時のままのようですが、遊廓跡を思わせる遺物は皆無で、現在は普通の住宅地になっています。
 二本松遊廓に関しては、飯田市美術館と柳田國男伊那民俗学研究所が編集した「飯田・上飯田の民俗1-飯田市地域史研究事業民俗報告書6」に詳しく書かれています。ここから歩みを拾ってみますと、明治15年開楼-戦時中に休楼-昭和24年再開-売春防止法の施行より一ヶ月ほど早い昭和33年2月18日廃楼。店は休楼までは10軒ほど、廃楼時は5軒。
 この資料には、実際に通った経験のある人への聞き取り調査も掲載されており、たいへん興味深い内容です。大平(伊那と木曽を結ぶ街道沿いにあった宿場町で今は廃村)出身の昭和5年生まれの方のコメントが面白い。

「昭和二十年代後半に度々通った。当時は大平に棲んでいたが、行きたくなると気がはやって飛ぶように山を下った。炭を作っていたので、支払いの足しに担いでいった。炭の元は充分に取ったと思う。」

 炭で女郎買い!?粋だねェ。山ばかりの伊那谷だけに、この方のように飛んで山を下り二本松に駆け込んだ男は多かったことでしょう。
 それにしても、遊廓の調査と記録を市が関係するオフィシャルな報告書に収録するというのは、さすが郷土研究がハイレベルな飯田です。遊廓の記録をロクに残していない豊橋あたりとは意識の高さが段違いと言わざるを得ない。

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 繁華街の伝馬町から二本松遊廓へは、この中ノ町を通ります。いわば遊廓へのアクセス道路。この町名、吉原のメインストリート「仲之町」から取ったのかと思ったらそうでもないらしく、「江戸町と馬場町の間に町屋であったから初め中小路と呼んでゐたが、後中ノ町と言うようになったのであろう」(村沢武夫『大火前の飯田』/昭和23年)という。

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 この通りには、昭和13年に建てられた見事な洋風建築の「下伊那教育会館」があります。遊廓至近に教育関連機関というのもなかなか凄い。「ここを遊廓へ行こうとする青少年の防波堤にしよう。そして我々教職者も頻繁に見回りを…ヒヒヒ」という発想があったことは想像に難くない。いや知らんけど。
(まさ)
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伊那谷雑 | Comments(0) | Trackback(0)
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