ローカル銀座の真打

2016年05月20日
 そう50号連動ネタの「ローカル銀座考」シリーズ。最後は飯田。やっとここまでたどり着いた。かつて立川談志は参院選全国区で全候補者の最後に当確を決めたとき「真打は最後に上がるもんだ」と言ったそうですが、三遠南信の銀座で名実が伴った唯一の飯田銀座こそ、真打と呼ぶにふさわしいと言えましょう。

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(銀座一丁目より南を望む)

 これが真打である。この写真だけ見ても真打に見えないかもしれませんが…。商店数、歩行者数、金をかけたと思しき凝った街灯、歴史など、すべてが真打の風格を備えているのであります。本誌で触れましたが、三遠南信で戦前から銀座を名乗っているのはここだけ。
 歴史を辿ると、江戸から明治までは飯田城の外堀に沿っていることから「堀端」と呼ばれていました。城郭破却後、堀が埋められ道が広がってから商店が集積し、明治30年に広小路と改称しています。

各戸軒燈に瓦斯燈六十個をつけてそれに『広小路』と明示した。京都や名古屋方面に習って角四方ガラスみこしの屋根のモダン型で、鐵さび色(あづき色)のペンキ塗りとした。
(「思出の飯田」飯田史談会編/昭和23年)

 ガス燈設置を機に広小路と命名し、そのネタ元は名古屋の広小路である可能性が窺えます。

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(銀座五丁目から北を見る)

 広小路がさらに銀座と改称したのは、昭和6年12月6日。今度は、道路の舗装工事が完了したタイミングです。ライバル商店街の知久町も同時に舗装され、三日間は両町が記念セール合戦を繰り広げました。以下、そのときの新聞記事。

街は化粧直し
舗装道路祝賀の用意整ふ 恵比寿講そっちのけ 売出し三日ぶっ通し

 飯田広小路知久町両町の舗装道路完成祝賀大売出しは今六日より七八三日間に亘り盛大に催す(中略)六日朝開店とともに各商店では個々に景品を出し大廉売を行い、西田梅花連の囃子屋台、手踊も出る。七日は知久町の音楽隊が祝賀曲を奏し両町を練り歩き、広小路は飯田銀座に改称披露を■て、過日入選した行進曲を早速飯田芸妓が西川流の踊りに振り付け、芸妓五名踊り、ラヂオセットの囃子屋台を引き回す。
 今日六日を限り広小路の名は永遠に消えて新しく飯田銀座が生まれるんだ。行進曲は東京行進曲を取って唄い易く洋楽と和学を混ぜて、発表するため数日練習を続けてきたいる。とまれ両町にとっては恵比寿講以上の大売出しだ。

(南信新聞 昭和6年12月6日付/句読点・改行は筆者、一部読みやすく修正、■は判読不能)

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(知久町二丁目)

 銀座の名称は、城下町以来の商人町である知久町へのカウンターになります。広小路の名を30年ちょっとであっさり捨てたのは新興商業地らしい。知久町がそのままで通したのとは対照的です。
 ちなみに、ローカル銀座の発祥は東京の戸越銀座とされ、大正12年に本家のお墨付きを得て名乗っています。つまり、飯田の堀端が広小路と改称した時はまだ銀座を使うことは一般的ではありませんでした。大正後期にローカル銀座が発生し、流行に乗って、というか先駆けて、銀座と改称したというわけです。
 豊橋の広小路(→●□)は大正14年ごろに新停車場通りから改称したということですが、この時期だと銀座を名乗るのにはチョイと早かった、とも言えます。

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(中央通二~三丁目)

 飯田にはもうひとつの商店密集ストリートに「中央通」があります。もとは「荒町」と呼ばれ、途中で鉤型に折れ曲がっていました。大正12年に伊那電気鉄道が開通して駅まで道が伸び、昭和22年の飯田大火後の区画整理に伴って、現況のように滑らかな道筋に改修され、名称も上荒町・中荒町・下荒町から中央通に改称されたようです。
 通りの起点は飯田駅ですが、なぜか駅前通りとは呼びません。これは銀座や知久町のカウンターというより、火災復興区画整理における最大改修街路のひとつだったので、事業のシンボルとして「中央」を採用したんじゃないかと僕は見ますが、どうか?
(まさ)

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オマケ。南信新聞に掲載された銀座&知久町舗装記念大売出しの広告

飯田銀座はこちらも→●□
市街北部の商業地、伝馬町→●□

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伊那谷雑 | Comments(0) | Trackback(0)
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