挙母におけるストリート名称の件

2016年03月27日
 そう50号連動ネタの「ローカル銀座考」シリーズ、第二弾は豊田市中心部の銀座。
 そもそも挙母は、名古屋・足助(経由飯田)・瀬戸・知立・岡崎・松平下山(経由東三河)・藤岡小原(経由東濃)の7方面の街道が交わる交通の要衝で、旧街道筋が軸となって市街地が形成されました。核のストリートは東西の「中町通り(現桜町)」と南北の「竹生通り」で、これに大正~昭和初期に発展した「挙母駅前通り」や「昭和通り」が加わって、碁盤目状の町並みが形成されます。
 地元の商店主に聞いたところ、挙母の銀座は南北のストリートの南側で、駅前通りと交わる「喜多町3丁目交差点」から2ブロック南の「桜町1丁目交差点」までの両側だったようです。

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 いちおう商店は連なっているものの、街路が広いせいでいささか散漫な印象は否めません。昭和50年頃までは道幅が狭く店もギュウギュウに連なり、銀座の名に違わぬ賑わいっぷりだったとか。挙母市時代の市勢要覧や商工案内のグラビアには、繁華街の代表として銀座通りが必ず大きく掲載されているほどです。
 現在は「一番街」に改称されています(改称時期は未確認)。この名は、かつてのナンバーワン商店街「銀座」の自負によるものでしょう…か?

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 挙母銀座の名が正式に登場したのは、昭和24年と思われます。
 「豊田市史 現代編」によると、戦後の商店街組織の嚆矢は昭和22年発足の「竹生商栄会」です。この会では、視察先の岐阜・柳ヶ瀬の街灯に倣い、翌年には通りに100ワットの裸電球を設置。戦後間もない頃の暗い町を明るく照らし出し好評を博しました。この竹生商栄会の積極策に刺激を受けた他の街区、中町(現桜町)、北町(現喜多町)、西町、若宮、昭和町、銀座、本町でも、昭和24年に商店街組織が発足します。これより以前に銀座の名が出てくる資料が見当たらなかったので、おそらくこのときではないかと(※註)。
 ということで、ローカル銀座四原則のひとつ「銀座はカウンターである」に照らすと、挙母銀座は戦後の商業振興の先鞭をつけた竹生町のカウンターということになります。

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「そうでやんすか…」(銀座の眼鏡屋さん)

※註
昭和10年発行の「花街競艶録」という冊子(豊田市郷土資料館編「挙母資料にみる明治大正昭和のあゆみ資料集」に収録)に当時の挙母市街の店の広告が多数載っており、驛通り(驛前通り)、昭和町(昭和町通り)、中町、北町、神明(神明本通り)、西町、竹生(竹生本通り)の名が確認できます 。

160327-9.jpgクリックで拡大します

 例によって挙母のストリート名称マップを自作してみましたが、現行商店街の範囲がいささか複雑で解明しきれず、誤認箇所もあると思いますので、地元の方にご指摘いただけますと幸いです。

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参考資料1。銀座が載っている市勢要覧や商工案内(のコピー)。 

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参考資料2。昭和29年の挙母市商工名鑑に載っている広告の地図(のコピー)。このあたりの資料、気になる方は豊田市中央図書館で探してみてくださいませ。

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西三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)
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