幸田維新

2015年10月23日
 さらに幸田の話ですが、マニアックすぎてどこなのかわからないと思いますので(いつもか)、まずは地図をご覧ください。スマホだと標示が異常ですが直し方が分からないのでスイマセン。



 昨日アップした相見駅南西のコスモス畑が、紫色で囲ったところになります。ここから西へ少し行くと、田園地帯の真ん中を流れる広田川に小ぶりな橋が架かっておりました(赤太ライン)。

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 昭和三十二年架橋の特にどうということのない橋ですが、名前が凄かった。

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 その名も維新橋!なぜこのような大仰な名前に?
 大正時代の地図を見るとすでに同位置に橋があり、現在は橋より東の道筋が消滅していますが、もとは菱池の新田集落(水色の枠)と東部集落とを結ぶルートだったようです(赤細ライン)。
 もともとこのあたりは「菱池」という巨大な池の一部だったのですが、江戸時代の早い頃に新田開発されており、新田集落は江戸時代初期に今の大字菱池の「鷲田」「岩堀」集落などの人が開墾のために住みついたのが創始とされています。つまり維新橋は、新田集落の居住者が親村へ行くための道筋に架けられた橋ということ。
 しかっりした道と橋がいつできたのかわかりませんが、明治19年、菱池一帯の大規模な干拓事業を実業家の神野金之助が行っており、たぶんそのタイミングあたりで整備されたんじゃないかと推察します。維新橋という名は、開発されたのが明治時代だったので、明治の象徴として命名された…んじゃないかなあと思うのですが、詳しいことが書かれた資料は未見なので本当かどうかわかりません。

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 橋より東の古い道筋は消えましたが、辿ってみると菱池東部集落の外れに古道の名残の踏切跡を発見(赤細ラインと東海道線の交点)。

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 それから、コスモス畑の脇の東海道線築堤には、古い石組の架道橋もありました(緑ライン)。大正時代の地図だとこの筋は道ではなく、排水路らしきラインが描かれています。後年の耕地整理で排水路を埋めて道にしたんじゃないかと思いますが、これも確信はない。
 確かでないことばかり書き連ねておりますが、なにしろ話が細かすぎるので、どこかに資料があるのかもしれないけれど単なるマニアには調べるのに限界が…。しかしいずれも、菱池の田園の開発のかすかな名残ということです。
 ちなみに神野金之助は、豊橋の神野新田の開発者として豊橋では偉人として名の知られた人で、その子孫がサーラグループを経営しています。
(まさ)
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西三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)
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