ジキジキでんでん

2015年05月29日
 と言っても大須演芸場によく出ていためおと楽団ではありません。
 知多半島全域をめぐる「もうひとつの弘法霊場」こと直伝弘法が今年開創90周年を迎えまして、知多半島のローカル媒体に記事を書いたのですが、それに先立って先日ようやく全札所を回ってきました。
 平成22年に納経帳を購入してスタートし(→●□)、知多半島での仕事の合間にちょこちょこ回って、五年かかってやっとこさ終了。いやー長かった。いくつかの寺院は無住で、100円置いて自分で御朱印を押したりしました。また、留守で出直した寺も二、三あります。文句を言う野暮な人もいるらしいけど、僕としては、なんか呑気でこういうのもいいよな、と思いますが。

150529-1.jpg
(8番浄通院/大府市追分 シンボルカラーは紫)

 直伝弘法は大正14年の開創。鳴海の1番瑞泉寺から東海市大田の88番龍雲寺に奥之院を加えた89寺で構成されており、離島を含めて知多半島を一周できるよう札所が置かれています。
 この霊場は開創時に、当時の四国八十八ヶ所霊場会会長だった善通寺誕生院の貫主(とっても偉いお坊さん)から開創のお墨付きをもらっていることがポイント。その証書が残っているいくつかの寺院では、弘法大師像とともに掲示してあったりします。
 また全札所の弘法大師像は、常滑の坂井出身で、東京に出て株取引で莫大な財をなし証券業界のリーダーとして活躍した片岡辰次郎が寄進しました。そのため「片岡家先祖累代之霊」と記された位牌が像とともに置かれているのが定番です(なくしたところもあるみたいだが)。

150529-5.jpg

 ただ、札所のお寺さんに開創当時の新聞など資料を見せてもらったのですが、誰の発案で開創されたのかが全然わかりません。
 明治末から昭和初期にかけて、全国各地に「ミニ八十八ヶ所」がぼこぼこできまくる弘法霊場ブームがあり、その流れのなかで誕生したことは間違いありません。しかし、ミニと八十八ヶ所というには範囲が広く、しかも知多四国が成立して既に100年経っているわけで、なぜ新たに同規模の弘法霊場を開いたのか疑問。
 これまで知多四国の取材で聞いた話も総合すると推察はできるのですが、長くなるしとりあえずここではしれっとスルーしておきます。またいずれ…。

150529-6.jpg
(6番春江院/大高 建物が登録文化財という巨刹)

 直伝弘法は、札所の置き方や寺院のセレクトに興味深い点があります。
 ひとつは、1から3までが鳴海にあること。そもそも知多半島全域を網羅する弘法霊場が置かれる根拠は、弘仁5年(814)に弘法大師が知多半島に上陸した際、知多半島が故郷の四国に似ていることに感銘をうけた、とされていることにあります。知多半島はイコール知多郡。なのに、知多郡でなく愛知郡の鳴海に三つも札所があるのはなぜなんだ、と。
 見せていただいた資料で分かったのですが、おそらくこれは愛知電鉄(名鉄の前身)が直伝弘法を後援していたことと関係があるのではないか。愛電は観光の乗客誘致にきわめて熱心な会社で、開創時の約三ヶ月間、愛電は納経帳に電車の三割引券を付けた、という広告が載っていました。最終札所も太田川駅のすぐ近くだし、愛電でのアクセスはきわめて至便。
 ちなみに知多四国の場合、1番は愛電前後駅が、最後の87番長寿寺は省線大高駅が最寄りになります。

150529-3.jpg
(35番安養寺/美浜町布土 裏山からの絶景)

 二つめは、知多四国の札所が手薄な地域をフォローしていること。河和、上野間、坂井、小鈴谷、西之口、新舞子、日長といった知多四国の札所がない大きい村にも直伝の札所があります。逆に知多四国でこれら大きい村に札所がないのはなぜなのかという話だが、まあ、いろいろあったんでしょうなあ。
 三つめは、けっこう大きい寺院が札所になっていること。鳴海の瑞泉寺、緒川の乾坤院、河和の全忠寺、大野の斎年寺あたりはなかなかの規模です。見せていただいた開創時の資料にも「御大山が多い」とひとつのセールスポイントにしています。

150529-7.jpg
(68番桂岩寺/常滑市多屋 見事な天水桶)

 直伝弘法は戦時中に廃れたようで、以後ながらく忘れ去られていました。そんな直伝さんを大府の豊田自動織機の社員サークルが見出して昭和50年代にグループで巡拝するようになり、その話が次第に広まって注目されたのを機に、平成15年に霊場会を組織して再興されたのでした。再興されてまだ10年ちょっとだったとは少し意外だった。
 いやしかし、愛知県にはいろんな霊場があって面白いですナムダイシ。
(まさ)
スポンサーサイト
知多雑 | Comments(0) | Trackback(0)
Comment

管理者のみに表示