カナザワンダー

2014年06月27日
 春夏秋冬叢書「そう43号」連動ネタ。金次郎像ではなく、毎号やってる「地名探訪」のほうです。
 今回は「金地名」ってことで、編集会議でリクエストがあった旧御津町の金野を取り上げました。29号の「野地名」で少し書き、当ブログでも三年半前に触れましたが(→●□)、今回はその増補改訂版というところです。
 最初は一宮町の金沢を取り上げたくて、締め切り直前までネタを探したのですが、いかんせん膨らまなかった。

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大坂神社の下から集落中心部と本宮山を望む

 金沢は豊川左岸の集落で、明治11年から昭和26年まで単独で「八名郡金沢村」でした。昭和26年から昭和30年までは、南隣の賀茂村と合併し「八名郡双和村」になったものの、昭和30年に解消して一宮村にくっつきました。自治体の夫婦不和ですネ!
 ちなみに金沢小学校も昭和51年度までありましたが、大和小学校(ここ→●□)と統合して一宮南部小学校となり、川のすぐ向こうに新校舎が建設されました。一宮南部小学校には、旧金沢小と旧大和小の二体の金次郎像があります。

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別所街道の旧道

 本誌の「地名探訪」では、その地名の由来(伝承や推測含む)をとっかかりに話を膨らますのを定番としています。ところが、この金沢という地名の由来が、まったくわからなかった。
 金沢という地名は、明治11年に御薗村と養父村が合併した際に命名されたものです。しかし、金沢の元ネタはいったいなんなのか。記録もないし、伝承もないし、教委や郷土史家に聞いてもわからない。唯一関連するのが村の真ん中にある「金山」という小字で、これをアレンジしたとも考えられなくはない。だとしても、沢はどこから湧いて出た?
 結論としましては、明治の地名はお偉いさんがテキトーに決めたとしか思えないものが多く、まあ、ここもそのひとつなんでしょう。そのお偉いさんが実は百万石の金沢出身だったとか、金沢に旅行した時「いいね!」と思ってここにつけちゃたとか。
 というわけで、これ以上膨らませようがないので取り上げるのを断念した次第です。なお、明治のテキトー地名の代表例は、吉田を改称した「豊橋」(→●□)。

 (1993.12.23撮影)

 そんなオチじゃなんですし、昔の豊鉄バス写真の評判が意外にいいのでオマケ(前回同様iPhoneでテキトー接写)。いつの間にやら廃止なった豊鉄バス金沢線の金沢口バス停。この、赤白赤の小型バス停板が好きだったなあ~。


(1993.12.03撮影)

 金沢線は、終点の江島下バス停で新城市街へ向かう中宇利線と接続し、乗客の便を図っていました。驚くのは、写真のように実際に乗り継ぐ人がいたということ。江島下バス停は旧江島橋へと通じる道沿いの豊川堤防手前に位置し、田んぼの中にバスの反転場がありました。確か今もこの跡地が残っていたと思います。
(まさ)

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東三河雑 | Comments(4) | Trackback(0)
Comment
No title
昼間の時間帯に連絡ダイヤを編成していたなんてまるで鉄道だ!しかもすごい瞬間を写真に収めていらっしゃいて感動ものです!
この金沢口バス停は無造作なロケーションがプンプン香ってきます。ここがバスを待つ場所なの?って感じで…、それがまた豊鉄さんらしくて!この写真を拝見して当時の鉄ポールのバス停が通過時刻を鉛筆でなぐり書きしていたことを思い出しました。なんと大胆というか!!今でも鉛筆書きでしょうか?
新城系統のバスが反転場に入庫しないのは、スペースの都合でしょうか?
長々と失礼しました。
No title
はて、なんでなんでしょうか?確かに妙ですね。撮るには絶好の配置だけど。
鉛筆書きってのもあったような気がします。さすがに今はないでしょう。バス停の味わい深いロケーションに関して、一緒に回っていた同好の友人が当時力説していたのは「設置場所の雰囲気は遠鉄サンのほうが一枚上手。トヨテツは雑に置いたものが多い」。
No title
遠鉄さんの独走状態はとまりませんね。先ごろ、廃車になった超低床バス(オムニバス)三台を災害対策車として自社改造。営業所が被災した際の運行指揮の拠点になるのだとか。オムニバスを早くも廃車にしてしまうサイクルの早さにも驚かされます。
No title
もう廃車!?あいかわらず遠州のやら舞いか精神を体現した会社ですね。オムニバスタウンでガンガン売り出し始めたのが90年代前半でしたっけ。あの頃、駅前バスターミナルでよく時刻表や資料をもらってきたものです。件の友人が出身地の静鉄バスについて「すべて遠鉄サンのパクリだ」とか言っていたなあ。
そういえば、ETカードの残額を3千円ほど残してしまったことを今思い出した。

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