道標パルピテーション

2014年04月26日
 師崎街道の続き(なんだパルピテーションって)。とりあえずGoogleマップに古布~師崎間のルートを引いてみました→●□。大正12年発行の5万分の1地形図「師崎」をベースにしています。一部、圃場整備によりトレースできていない区間あり。
 この地図のとおり、師崎街道の南部区間は三か所でで国道247号から大きく外れています。これといったアレはないので一般向きではないですが、一部マニアの皆さんなら歩いて楽しいんではないかと。
 たとえばこんな感じ。大井小学校の北あたりです。

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 うーん…。この写真の豊丘(山田)~大井間は峠越え道で、大正12年に海側に道が開かれるまでの「街道」でした。
 あとこんな感じ。「新師崎地区」の上です。

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 うーん。この師崎の手前の丘越え道「乙坂」は、昭和40年代に師崎漁港の大規模な埋立工事が行われるまでのルート。この工事は道が開かれただけでなく地形も大きく変え、師崎市街の東にあった「林崎」が消滅しています(→●□)。
 この区間の道路遺産としては、道標二つと道路元標があります。

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 地図上のひとつめのピンの標識と道標。日本の道路標識は全方向が一枚に収められているのが一般的なのに、これはどうしたわけか地名ごとにプレートが違う。外国の標識みたいだ。
 道標は、この写真ではわかりにくいですが「花ひろば」のカンバンの左にあります。矢梨青年会がのちの昭和天皇の立太子礼(大正5年)を記念して建立したもの。「師崎道」「豊浜道」の文字が刻まれています。

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 ふたつめのピンの道標。右は「河和半田」で、車道として開かれた道を示す。左は「山田新屋敷道/河和半田ちかみち」で、車道が開かれる以前のルートですが、圃場整備で消滅しています。他の面は「片名水門橋へ十八丁/師崎千賀橋へ三十五丁」「海岸渡船場へ五丁」。渡船場というのは、戦前まで大井にも日間賀島・篠島行きの船が発着していたことのなごり。

140425-1.jpg

 でもって終点の師崎町道路元標。埋もれてしまっているのを役場が掘り起こしてくれないものか、と前から思っているのですが…。
(まさ)
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知多雑 | Comments(2) | Trackback(0)
Comment
大変に興味深いネタが普通に転がってるのが、このプログのすごいとこです^^

師崎の道路元票、管理者とか持ち主とかいるんですかね。単にこれを掘り起こすだけならそんなに金もかからないような気もいますが。
しかし道路毛標をこんなに深く埋めてしまうなんて、愛情のない町ですな。
No title
いやいや、残っているだけでもいいですよ。旧額田町にあった豊富村道路元標は、トラックがぶつけて折ってしまったあと、近所の人が「たしか役場の人が持って行ったけど…」その後行方知れずです。旧吉良町にあった横須賀村道路元標も同じような話を聞きました。

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