カンバンの手帖ブログ版0257

2013年12月07日
 先週末の「3日続けて奥三河」周遊では、東栄町振草と同じく久々になる旧鳳来町北西部の愛郷というところにも行ってみました。国道257号からちょっと山へ入ったところ…というか、この国道の旧鳳来町区間を走る人もあまりいないでしょうが。


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 このあたりです。
 この地区にある旧愛郷小学校も久々にチェック(上の地図のピンは旧愛郷小の位置ではありませんので念のため)。校庭に銀杏の葉が敷き詰められるように散っており、見事。

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 この廃校は、二宮金次郎像の珍品があることで一部マニアにはよく知られております。ふつう二宮金次郎像といえば薪を背負って歩きながら読書するという姿ですが、ここはなぜかレリーフ状で、しかも年を取ってからの姿。「学ぶ」面よりも「偉人」面が強調されている感じ。

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 初めてこれを見たのは20年ほど前。三遠南信マニアの友人と二人、海老から愛郷経由で布里まで廃校やマイナー集落をチェックしながら歩いた途中に寄ったのでした。なんというか、我ながらやってることにまったく進歩がないのである。
 校庭の片隅では、20年前に見落としていたカンバンを発見。愛郷公民館が設置した村の史跡案内です。同好の士であるSさんが既にブログに書かれていますが、面白いネタなので後追いします。

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 よく読むと史跡案内ではなく、とんでもない事件が記されている。

時は万治3年4月22日春もなかばすぎ
平和な恩原村に突如一大事件が起こった。
恩原村豆栃に住む七郎右エ門親子が
家内の者を皆殺しにし
又、い合わせた近くの長兵エに嫁いでいた娘
男女2人の孫まで殺害し
死体全部を軒下に埋め
夜に及んで自分の家に火を放ち
なお近くの家8軒を焼き払い
翌23日の夜またも村の上方にあった5軒を焼き
倅の喜兵太と共に作手小夫田へ逃げ
そこでも2人を打ち殺した。
喜兵太は鉄砲で自殺したが
七郎エ門は24日ひそかに村に帰り
組頭の小佐エ門方へ立ち寄って村のようすを聞き
自分の死後の死体の後始末について小佐エ門を通じ
竜頭山正眼寺(明治6年廃寺)の住職に頼み
自分はスドチ洞に登り無残な我が家敷に黙想し
未だ各所の焼跡から立ちのぼる煙に
全心の笑みを浮かべながら
指を切ってその血でさらしに意趣を書き残し
切腹して果てた。
恩原村字峯の俗にいう腹切畑である
 愛郷公民館

(原文ママ。改行引用者。万治3年は1660年)

 400年も前のこととはいえ平和な村にこんな凄惨な事件があったとは…とか言ってる場合ではなく、なんでこんなものを小学校に設置したんだ?しかも後半の表現力が豊かすぎ!
 廃校後に立てたのかもしれないけど、今ではカンバンにできるネタではないです(昔もか?)。鷹揚な時代だったのでしょう。

131207-4.jpg

 近くの道路わきにはこういうのもあった。こちらは普通に史跡案内。ぞんざいに置かれているけど、よく朽ちずに残っているものです。
(まさ)
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東三河雑 | Comments(4) | Trackback(0)
Comment
No title
すげー、八つ墓村みたいだ…
実はこれが原案だったりして。
聞いたこともない城ですなぁ
その辺りだと、室町時代の頃なら
山家三方衆・田峯菅沼家の城かなぁ
検索しても出てきませんわ。
No title
七郎エ門がさらしに血でしたためた犯行の理由が気になる…。
No title
奥三河の底深さに驚かされますね。
愛郷小学校なんて、道に迷った時くらいしか
あんな道路普通じゃ通らないし
行ってみないと発見!できないというのが面白い?
ってところですねー。
西側からものすごい狭くてクネクネ道を降りていった
とたんに突然現れる愛郷地区あたりは、奥三河の典型的な
面白さじゃないでしょうか。
地元の人に聞いてカンバンの「腹切畑」に行ってみたけど
山がくずれてもう分からなくなってました。
歴史も、もう古老に聞いてもはっきりとは分からなくなってるようです。

地図ですが、違ってますね。
愛知県新城市愛郷平沢で検索してみて下さい。
No title
すいません、愛郷の範囲を示したかったのですが、グーグルマップで「新城市愛郷」を検索すると不要なのにピンが立っちゃうんです。消し方がわからない…。

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