秋田の三河人

2013年05月03日
 話題が錯綜しますが、秋田ネタに戻ります。
 僕にとってたいへん馴染みが薄く、こちらの地域とも特に深いつながりはないように思える秋田ですが、全域を駆け足で回っていたら意外にも三河とのつながりに気が付いた。それは、江戸時代中後期の学者、菅江真澄。
 何者かと言いますと、三河の生まれでありながら若いころ出奔し、東北や蝦夷を歩き回り、最後は秋田にとどまって秋田藩の依頼で秋田の地誌を作った人物です。秋田にはあっちこっちに下のような標柱が建ち、菅江真澄学会なる団体もあったりしてかなりリスペクトされている模様。

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 男鹿市門前、赤神神社五社堂にて。

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 男鹿市椿にて。名所旧跡や神社仏閣だけでなく、集落自体のことも丹念に書き記しているところがポイント。こういうものがあると、観光地でもなんでもないマイナーな村も川底の雲母のごとくキラリと光ってきますね。
 ただ、秋田では顕彰されているけど、出生地の三河ではそんなに重きを置かれている人物ではありません。というもの三河時代の謎が多いうえ、地元で業績をまったく残していないから。生まれは豊橋(一説に岡崎)と言われ、本名は東三河に多い白井姓、賀茂真淵の系譜に連なる札木在住の文化人に学問の基礎の手ほどきを受けたということがわかっているくらい。
 29歳の時に三河を出た理由も定かではありません。豊橋市教育委員会が昭和61年に発行した「郷土豊橋を築いた先覚者たち」には「いままで学んできた本草学・国学の知識をもって、当時ほとんど知られることのなかった辺境の地、東北地方の風物をすべてにわたって確かめてみたかったのかもしれない」と書かれていますが、たぶん違うと思う(だいたい東北の人にちょいと失礼な文章)。
 秋田の図書館で菅江研究本を斜め読みしたところ「女がらみのトラブルかなにかが理由じゃないか?」と推測する記述もあったりして、なんとなく三河がイヤになって飛び出したような気がするなあ。

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終着駅風情のただよう男鹿駅

 考えてみれば僕もこの10年、地元の岐阜を出て三河や遠州や知多のローカルネタを追っかけてばかりいるわけで、菅江真澄的ともいえます…って、おこがましいにもほどがある。でもこの人にはなんか魅かれるので、もう少し菅江真澄の足跡を追って秋田じゅうをうろつき回ってみたいところ。秋田人でなく三河人の視線で見れば、また違った面白いネタが拾えるんじゃないか?

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「不審者はいねがぁ~」(男鹿市門前に立つ巨大ナマハゲ像)

 だけど秋田は遠すぎるので、僕の財力ではまあ無理でしょう…。
(まさ)
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Comment
その名すら知らず…。
 十数年前に貧乏旅行していたころ。秋田県あたりをうろうろしている時、地元の方と雑談中に愛知出身と伝えると「菅江真澄を知ってるか」と何回か聞かれました。
 恥ずかしながら、その方の名前すら知ず、後に書籍などを読み、いつかゆかりの場所を巡る旅をしたいと私も思いました。
 そんな事を思い出させてくれた記事ありがとうございます。
No title
僕も秋田に行って地元の人から不意に話題を振られるまで、菅江のスの字も思い出しませんでしたが…。平凡社ライブラリーの「菅江真澄遊覧記」も数年前に買ったまま読まずに積んであります。

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