シークレット田んぼ

2017年09月29日
 春夏秋冬叢書「そう」56号連動ネタ。
 前回も少し触れましたが、女性取材記者が無知押の元住人の方から聞いてきた話によると、かつて無知押への道はけっこう往来があったといいます。というのは、無知押からさらに奥へと進んで峠を越えたところに三都橋(栗島)の人が開いた新田があり、そこに行くために頻繁に使われていた道だというのです。



 その地は落目(おちめ)といいます。現在は、県道365号から分岐する町道が通じていますが、この道ができるまでは無知押経由の険しい山越え道を歩いて行くしかありませんでした。

170929-1.jpg

 本来ならばこの道を歩いて落目に行ってみたいところですが、そんなことをやっていると一日潰れてしまうし、そもそも今回の企画(無の付く地名)とは趣旨がぜんぜん違うので、無知押の先の登り道を確認だけして下山し、車で行ってみました。

170929-2.jpg

 栗島から裏谷方面へ3kmほど進むと、落目への道が分岐しています。それにしても落目とは縁起の悪い。地名でネガティブなことはいつもならば言いませんが、ここは昔から人が住んでいないところなので…。
 ところどころ落石もある悪路を何分か登っていくと突然視界が開け、そこに広がる光景に驚嘆。

170929-3.jpg

 なんだこの広い荒地は!

170929-4.jpg

 耕作放棄地の真ん中を草に覆われそうな舗装道路が伸び、廃集落さながら。しかしもとから民家はないので、設楽ダム建設で全戸移転した集落で味わう寂寥感とはちょっと異質で、なんともいえない辺境感が漂っています。

170929-5.jpg

 設楽町史によると、ここは耕地の少ない三都橋の人が天正三年(1575)に開墾したと伝わり、山奥すぎて新田を開いたことがバレず年貢の徴収を免れた「隠田」と言われているそうな。地元の人の話ではほんの数年前まで米が作られていたとのこと。
 水田が広がっている風景を見たかった…。
(まさ)

170919-5.jpg
スポンサーサイト
東三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)

無知押の古道遺産

2017年09月25日
 春夏秋冬叢書「そう」56号連動ネタ。
 無知押についてはその後、女性取材記者が単独で設楽町へフォロー取材に行った際にもと住人の方に出会うことができました。で、その方に話を伺ったところ、前回とは別のルートでアクセスできる道があり、むしろそっちの方がいい道だということが判明(前回記事の地図の赤ライン)。
 ということで女性取材記者は「もう一回行きたい」と言い出しまして、前回からわずか二週間後に無知押再訪となりました。今回は平日で、6歳児は保育園に行っているので二人だけです。いやはや、ドーモ…。

170925-1.jpg

 赤ルートの入口はこちら。この小さなカンバンが目印です。何度もこの県道を通っているのにちっとも気が付かなかった。
 実際のところ、前回の青ルートより傾斜が緩く、確かに歩きやすい。また、沿道にはいくつか見どころもありました。

170925-2.jpg

 無名の滝である。シブい、シブすぎる!元住民の方に「ぜひ見て!」とオススメされたそうです。

170925-4.jpg

 石垣で補強された道路である。なんでも無知押からさらに上に登ったところに栗島の人が開いた広大な水田があり、牛に荷車を曳かせて耕作に通っていたらしい。この補強と道幅がそれを証明しています。

170925-3.jpg

 そして沢に架かる丸木橋である。上の石垣といいこの橋の残骸といい、道路マニアにはたまらない遺構ばかり。今回ばかりは嫁の執念に感謝したのでありました。

170925-5.jpg

 で、青ルートと同じくゆっくり歩いて30分ほどで無知押に到着。いやー、こんなところにまさか二度も来ようとは。聞いた話では、このすぐ先の「加根押(かねおし)」という小字にも一軒家があったとのこと。ものすごくそそられるので、いずれまた来ることになるでしょう(女性取材記者は特に廃集落に執着があるわけではないので、たぶん一人で)。
 なお、この杉林は移住後に植林されたもので、昔は山に木はほとんど生えておらず、下の行戸集落まで見下ろせたようです。
(まさ)

170919-5.jpg
東三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)

なつのおやこたんけんたい0002

2017年09月23日
 春夏秋冬叢書「そう」56号連動ネタ。
 地名探訪で取り上げた設楽町三都橋の小字「無知押(むちおし)」は、文章が女性取材記者、写真はわたくしが担当し、チョー久々に夫婦合作となりました。いやはや、ドーモ…。
 無知押の場所は、国道420号の折立の三差路(赤沢弁財天の霊泉のところ)から県道365号に入り、旧三都橋小学校をすぎたところにある行戸集落の上の、山の中になります。



 事前に設楽町史を参照したところ、どうやら昔は一軒だけ家があり、子授けと安産に御利益のある「無知押坊主」なる祠があったらしい。上の地形図で十字のアイコンのところ、オレンジ色の小さい四角が無知押の一軒家の跡なのですが、今も道が通じているのか非常に怪しい感じです。
 しかし、一度下見にいったとき行戸で出会ったお婆さんに聞くと「もう何十年も行ったことないけど、道はまだあるはずだぞん」と言うではでないですか。

170923-6.jpg

 ならば行くしかないってんで、後日、家族そろって無知押を目指すことにしました。
 なんでまたこんなところに6歳児を付き合わせたかというと、過疎地の現状を体感させ、かつ男の子らしい冒険心を養おうという教育方針によるものである。…ということでは全然なくて、前の晩に友人家族らと裏谷の「きららの里」のコテージに泊まり、午後3時ごろまで奥三河で遊んで解散した帰りだったからです。せっかく設楽の山奥に来てるんだし、出直すとガソリン代もかかるんで…。

170923-2.jpg

 県道365号沿いに立つカンバンの左側から山道に突入。すぐに道は険しくなりますが、6歳児はときどきすべり落ちそうになりながらも果敢に進んでいきます。冒険心を刺激されるのか、意外なほど楽しそう。
 距離は大したことないのですが、けっこう急な斜面と子供の足ということで30分くらいかかって、ようやく無知押に到着。

170923-7.jpg

 そこで我々一家が目にしたのは、落石で無残にも破壊された「無知押坊主」の跡でした。大人なら一瞬ぎょっとする光景ですが、6歳児はまったく動じず。

170923-5.jpg

 そして、昭和44年まで人が住んでいたという廃屋にも6歳児は興味津々で、遺物を探したりスマホで写真撮ったり存分に楽しんだのでした。この両親にしてこの子あり。
(まさ)

170923-8.jpg

ちなみに、無知押へのアクセスルートは二つあり、今日紹介したのは青ルートです。

170919-5.jpg
東三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)

ノーマウス、ノーヘアー、ノーヒップ

2017年09月22日
 春夏秋冬叢書「そう」56号連動ネタ。宝飯エリアで撮影した無地名をまとめて。これといって話が広がらないところばかりで…。
 まずは蒲郡市拾石町の口無シ。



 主に田んぼと拾石川しかありません。ところが現地へ行ってみると、名鉄蒲郡線の北側の堤防に美しい桜並木が!

170922-2.jpg

 しかし、秋に発刊される雑誌に桜の写真は載せられないのであった…。



 続きまして、蒲郡市三谷町の毛無。インパクトのある地名ですが、主に畑と溜め池しかありません。

170922-5.jpg

 ところが現地に行ってみると以外にもいい雰囲気。三谷の町から1キロほど離れた高台に位置し、見ようによっては高原の避暑地にも思えなくもない。本宿と蒲郡を結ぶ鉢地坂トンネルの道を「新箱根」と呼んだのに対抗して、ここを「新芦ノ湖」と呼んでリゾート開発しようという動きもあった…という話はないです。

170922-6.jpg

 南向きの眺めもなかなかよいのであった。
 あともうひとつ、豊川市為当町の尻無。ここは三河の無地名では非常に珍しい例で、人家が建て込んでいます。



 ここで凄いのは、Mapionに記されている黄色のラインの県道373号金野豊川線→●□

170922-8.jpg

 非常に狭い道で、なんと音羽川の橋から為当町交差点まで普通車での通り抜けは不可能!僕は軽自動車でムリヤリ突破しましたが、それでもミラーを折り畳んでギリギリ。こんな県道なのに通行不能を示す標識や案内はナシ。精度の低い昔のカーナビだと誘導しそうで怖い。
 尻無に興味を覚えて行ってみようと思われた奇特な方は、お気を付けください。
(まさ)
170919-5.jpg
東三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)

何も無い所にあるもの

2017年09月21日
 春夏秋冬叢書「そう」56号連動ネタ。
 旧渥美町には無縁堂のほかにもうひとつ無地名で、和地町に「大無所(おおむしょ)」という小字があります。場所は集落の北東外れ。和地と福江を結ぶ県道420号沿いのごく狭い範囲を示す地名です。



 地元民以外はどこだかさっぱりわからないと思います。まあ、三河で無の付く地名はそんなところばかりですが…。

170920-1.jpg

 人家は一軒もなく、あるのは山の麓の畑だけ。文字どおり「おお!何も無い所!」という感じ。何も無いからこんな地名が付いたのかと一瞬思わせます。
 が、実のところ由来は不明。記事でも少し触れましたがムショ/ムショウ/ムシュウ地名は全国に分布しており、渥美半島には神戸に大無生(おおむしょう)があり、本誌のエリア外ですが磐田市(旧豊岡村)には虫生(むしう)があります。「ムショ」は墓を意味するとも言われ、また「ムシ=毟る(むしる)から崩壊した場所か?」と説明する地名辞典もありますが、現地へ行ってもそれらの説はいまひとつピンときません。
 たぶんまだ誰も本当の意味を解明していないと思われるので、ヒマで何もすることがない人は全国のムショ系地名を巡って謎の解明に挑戦してみてはいかがでしょうか(投げやり)。

170920-2.jpg

 何も無いとか言いながらも何かしらはあるもんで、大無所では県道に架かるこの立派な(?)橋が目に留まりました。昭和5年架橋の鉄砲橋。

170920-3.jpg

 簡素ながらも親柱や欄干のデザインが凝っているコンクリ橋です。たいして交通量が多くない県道にこんな重厚な造りの橋があるとは、この道がかつて「表裏連絡道路」としてそれなりに重要視されていたことの証明かもしれません。なお、表裏連絡道路とは表浜と裏浜をつなぐ道の意味で、今思い付きました。

170920-4.jpg

 大無所に隣接する字上大道にある三島神社もなかなかの味わい。拝殿の前に低い石垣と門が設けられています。詳しいことは調べていませんが古い形態に思えます。こういう神社もそんなにないのでは。

170920-5.jpg

 あと、参道に置かれたカウンター付き百度石。お百度参りをするとき、枠の中の玉を使って何回参ったか数えるもの。これはちょくちょく見かけます。

170920-6.jpg

 で、三島神社の門前には電話ボックスが。いつ、誰が利用するんだ!
(まさ)

170919-5.jpg
東三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)

無縁堂の無縁者さん

2017年09月19日
 春夏秋冬叢書「そう」56号が発売中です。今号のキーワードは「無」。私は例によって「地名探訪」「三遠南信産××育」をやっております。
 今号の地名探訪は無の付く小字がやたらと多いため、拡大版になっています。オーソドックスに地名の由来を現地に行って考察する「無之地」のほかに、調べてみたら意外に話題が広がった「無縁堂(田原)」と「無知押(設楽)」の三本立て。このうち無知押は、文章が女性取材記者(まり)で写真がわたくしという、何年かぶりの夫婦合作に…。
 さて、数ある三河の無地名の中でもっとも強烈だったのが、田原市中山町の小字、無縁堂。何がすごいかというと、この小字には墓しかないのである!



 中山の村はずれの、畑の中に区切られた狭い一角が字無縁堂になります。航空写真でもご覧ください。

170919-1.jpg

 無縁堂というくらいだから、最初は無縁仏を祀る場所かと思っていたら、中山地区の共同墓地でした。

170919-2.jpg

 周囲にはキャベツ畑や菊のハウスが広がっており、実に旧渥美町らしい景観です。これまでも地域性に富んだ好ロケーションの墓地景観をいくつも見てきましたが、渥美半島においてはここが最たるところではないでしょうか(オオゲサ)。
 本誌に記したとおり地名の由来は不明なのですが、ここに先祖代々の墓がある中山在住の知人によると、昔からこの墓地にいくつかある無縁仏の墓を「無縁者さん」と呼んで、何軒かが分担して世話をしているそうな。本誌には載せられなかったその無縁者さんの墓のひとつがこちら。

170919-6.jpg

 コンクリートブロックで囲った区画がなかなかの味わいですが、どれも墓石一基につき水と花が手向けられ、手厚く祀られています。話を聞いた方によると、墓参の際には必ず自家の墓と無縁者さんの墓に手を合わせていくといい、「あまりに当たり前にやっていることなので、無縁者さんのことを深く考えたことはなかった」とのこと。この方の家は村を開いた一族の末裔にあたるそうで、おそらく何世代も前から受け継がれている風習なのでしょう。

170919-4.jpg

 中山の写真が墓地だけではなんですので、無縁堂から徒歩1分のところにある神明社の写真でも…。
(まさ)

170919-5.jpg
東三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)

さらば浜名湖観光汽船乗船場

2017年09月18日
 先日、嫁の取材兼家族レジャーで浜名湖に行きまして、取材の絡みもあって久し振りに鷲津駅裏の「浜名湖観光汽船」の乗り場跡を見に行ってみたところ、更地になってて唖然。

170914-2.jpg

 以前ここには観光汽船の待合所を転用した老人会館がありました。浜名湖観光汽船は鷲津から湖岸の集落に寄りつつ三ヶ日および気賀に通じる航路を運航していた会社で、現在の「浜名湖遊覧船」の前身になります(解散し浜名湖遊覧船に統合されたのは昭和52年)。

170914-1.jpg
(2006.01.15)

170914-6.jpg
「鷲津港乗船口」
170914-7.jpg
「レストランわしづ/出口」
(2004.11.21、二枚とも)

 こういう貴重なカンバンも残っていました。しかるべきところに保管されているといいのですが…。

170914-3.jpg

 桟橋はかろうじて残っていますが、今やいつ崩落・水没してもおかしくない危険な状態なので、登録文化財にして保存整備・活用されることを願いたいところ…て、ありえない話ですけれど。そういえば平成16年の浜名湖花博の時に、鷲津港を復活して鷲津~会場間航路を運航しようというドリーミーな話もありました…。

170914-4.jpg

 ついでに、久し振りに入出にも行ってみたら、以前取材させてもらった老舗の佃煮屋さん(写真の右に見えるカンバン)が休業しており、これにも唖然。店のガラス戸には「長引く浜名湖の不漁のため材料の確保が困難になってきたため、休業させていただきます」の張り紙が。う~ん。

170914-8.jpg

 変化を嘆くわたくしに、6歳児はオフシーズンに入った女がウラウラ海水浴場(→●□●□)の浜辺に立ち「この世に不変なものなどないのですよ、おとうさん」と背中で諭すのであった。
(まさ)
遠州雑 | Comments(0) | Trackback(0)

岡崎におけるストリート名称の件0005

2017年09月14日
 7月下旬の「上地八景」に続き(→●□)、岡崎市のシティプロモーションサイト「岡崎ルネサンス」内のコンテンツ「“〇にナる”岡崎まちものがたり」にまた記事を寄稿しました。今度は岡崎駅の東部を占める羽根学区の話題で、柱町の住宅地にある「記念碑公園」のことを取り上げています(→●□)。そこで出しきれなかったネタ。

170913-1.jpg

 ここで書いている記念碑公園は、岡崎市でもっとも初期に実施された区画整理事業「柱町耕地整理」の記念碑が建立されている公園です。シブい住宅地の小山を整備し、記念碑および忠魂碑の立つ“メモリアル広場”と遊具を置いた“チビッコ広場”の2エリアからなっており、羽根学区の住民以外にはほとんど知られていないんじゃないかと思います。私は2006年刊行の「西三河今昔写真集」(樹林舎)の取材でこの公園と事業のことを知ったのですが、11年も温めていたネタをいい形で出すことができてうれしい限り。
 記事では柱町の耕地整理完工記念絵はがき6枚セットを大盤振る舞いで全部掲載していますが、特に注目していただきたいのはタテの2枚。

「造成された宅地。記念碑公園の南西あたりから北を眺めたもの」
「現在の吉村医院付近から東を眺めたものと思われます」


という写真説明が入った絵はがきの白枠の部分に「昭和通り」「銭山通り」と、ストリート名称が記載されているのです。

170913-4.jpg

 昭和通りである。北を望む。

170913-3.jpg

 銭山通りである。東を望む。おそらくこの丘陵地一帯が「銭山」と呼ばれていたのでしょう。
 記事に掲載した2枚目の地図(岡崎市街全図/昭和2年/三陽堂書店発行)地図を見ると、この2本の道は既に造られているのがわかります。耕地整理事業にあたって軸となる道だったため、ストリート名称を付けたものと思われます。残念ながら定着しなかったようですが…。
 地図はこちら→●□

170913-5.jpg

 昭和通りから南を向くと、日清紡針崎工場の跡地に造成された新興住宅地「春咲の丘」が見えます。戦前の新興住宅地と平成の新興住宅地を一望できる貴重スポットといえるでしょう(そうか?)。
(まさ)
西三河雑 | Comments(2) | Trackback(0)

カンバンの手帖ブログ版0353

2017年09月12日
 その竹生島で見かけたカンバン各種。

170912-1.jpg

 竹生島にならまだ在庫がありそうだ。

170912-2.jpg

 拝観券売り場を抜けると、巡拝者を描いたこんな誘導カンバンがお出迎え。威厳のある文字とあいまってこの味わい。

170912-5.jpg

 おちょぼ口がまた何ともキュートで…。どうでもいいですが、ここは西国三十三観音の札所なのに、白衣の上の羽織に「南無大師遍(照金剛)」と書かれているのが気になる。

170912-6.jpg

 階段を登り切ると、そこにも巡礼者の誘導カンバンが。こちらは現代風スタイル(ただし昭和40~50年代の)で、飛び出す絵本的な二次元立体。名品。
 こういう地形的に隔絶した土地というのは、デザイン史の面でも貴重なひとむかし前のカンバンが残りやすいようですね。こういう場所は積極的に保全を図るべきだと、私は市井の研究者として提言したいのであります。

170912-4.jpg
「どうでもいいですよ、おとうさん」

 竹生島の名物アトラクション、瓦投げを楽しむ6歳児。
(まさ)
西日本 | Comments(0) | Trackback(0)

元標まがいの道路標石0002

2017年09月10日
 先週の日曜、家族レジャーで琵琶湖の竹生島に初めて行ってみました。

170910-1.jpg

 長浜から出ている琵琶湖汽船の船に乗って行くのですが、岐阜の実家から長浜まではおよそ1時間で、近いもんです。だけど船代が高いイメージがあり(現在は往復3070円)、渡っても寺と神社しかないのでイマイチ食指が動かず、これまで行く機会を逸していました。

170910-2.jpg

 快晴のこの日は観光客でごった返しており、驚いた。こんな人気スポットだったとは…。

170910-3.jpg

 で、上陸してさっそくマニアックなブツに遭遇。丸型ポストと「国指定名勝及史跡」指定標石の間にある小さな標石です。

170910-4.jpg

 何かと思えば「県道竹生島線起点」標石でした。側面に「びわ村大字早崎一六六六番地先」「滋賀県」の刻印もあります。以前、信楽で同じものを見かけましたが(→●□)、滋賀県の定番モノだったとは。う~む、今後滋賀に行くたびに探さなくてはならん…。

170910-5.jpg

 後でネットで検索したらwikipediaの「県道竹生島線」の項目にこの標石の写真が載っており、どうやら道路マニアには有名な物件らしい。それによると、桟橋から拝観券売り場までアーケードに覆われたわずか100mが県道の指定区間だそうな。wikiにまで書いてあると探索意欲が減退するが…。
(まさ)
西日本 | Comments(0) | Trackback(0)

酒、酒、いいネ!

2017年09月08日
 盆過ぎには例によって義両親の移住先である千葉県北総に行きまして、例によって東海地方の人にはまったく馴染みのない町をウロチョロしてみましたシリーズ。今回は酒々井町。少し前、マツコの知らない世界の「マツコの知らない駅メロディーの世界」の回で、松澤健氏(→●□)の「JR東日本の超有名駅メロ“Water Crown”が最初に導入されたのは1989年の成田線酒々井駅だった」という情報を聞き、千葉県出身のマツコ・デラックスが「酒々井かぁ~。アタシ降りたことないかも」とコメントした、あの酒々井です。

170909-6.jpg

 その酒々井駅である。と言われても東海地方の人にはどこだかまったく分からないと思うので、例によって地図を貼り付けておきます。



 この町のことは特に何も知らないのですが、わずかに耳に入ってきた情報をもとに推測すると、たぶんこんな町。
・もともとは印旛沼南岸の丘陵地に開かれたド農村(たぶん)
・成田への参詣街道沿いに町が作られた(たぶん)
・昭和40~50年代に大規模な宅地開発がなされてベッドタウンになった(たぶん)
・有名物件は酒蔵、本佐倉城跡、酒々井プレミアムアウトレット
・文化的には佐倉の圏域に含まれる(たぶん)

170909-2.jpg

 ということで、景観はだいたい三種に分類されます。まずは旧成田街道沿いの町並み。右の旧家の前に立てられていた案内板によると、江戸時代には幕府直轄の馬の飼育地としても栄えたそうな。

170909-1.jpg

 続いて宅地開発エリア。京成酒々井駅とJR酒々井駅のあいだ及びJR酒々井駅の東側一帯に、分譲地と県営団地が広がっています。

170909-3.jpg

 そして、いかにも千葉らしい風情の農村。このへんの特産である落花生の畑が点在しています。

170909-4.jpg

 でもって名所のひとつ、佐倉市との境にある本佐倉城跡。聞いたことがなかったのでマイナー中世城郭のひとつかと思いきや、なんと国指定史跡。だけど、どこがどう国指定レベルなのか、城マニアでない自分には今ひとつわからない…。

170909-5.jpg

 そして町南部の農村集落にある酒蔵、「甲子正宗」の飯沼本家。シブい。
 以上「3分でわかる酒々井町」のコーナーでした。なお、酒々井3名所のひとつであるプレミアムアウトレットの画像は特に面白味がないので割愛させていただきました(アップしている画像も別に面白味はないけど)。
(まさ)
千葉雑 | Comments(0) | Trackback(0)
 | HOME |