ミス・タイガー

2017年07月29日
 春夏秋冬叢書「そう55号」連動ネタ。というか、取り上げようかどうしようか迷ってボツにしたネタ。
 地名探訪では豊川市の当古を取り上げましたが、最後までどっちにしようか悩んだのが岡崎市の古部(こぶ)です。山間部の河合地区の奥のほうにある集落です。小学校の学区でいうと生平学区。



 さほど地形的な険しさのない岡崎では、山あいの村であってもたいてい別の集落に抜けられる道があるものですが、男川の支流の最奥部に位置する古部は、珍しいどん詰まりの集落。岡崎で完全にどん詰まりの集落はここのほかに、山を挟んだ切越と、旧額田町の雨山ぐらい。

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 この古部の地名由来が平成11年に刊行された河合地区の郷土誌に載っています。それによると「古い郡衙(古代の役所)の所在地で、古府が転じて古部になったという説」があり、また「飛鳥時代に北野廃寺を建設する時、その核となる頭脳者たちの居住地兼研究所があったのではないかとする説もある」と。
 うーむ、いくらなんでもそれは突飛なのでは…。僕は単純に、村の周囲の山々が瘤みたいにボコボコしていたからこの地名になったんじゃないかと思います。
 この集落は、一部のマニアにはけっこう知られているのではないでしょうか。古部の子供が通う生平小学校に「二宮金次郎と思いきやまったく関係ない女性だった」像があり、以前テレビでも放映されていたのですが、「とら」という名のその女性が古部の生まれで、古部にも小学校と同様の石像があるのです。

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 これが集落の中ほどにある「孝婦とら」の像。台座には昭和53年建立と記されています。背中に薪を背負った姿は金次郎像そっくり。

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 ただし顔は女性である。
 前出の郷土誌によると、孝婦とらは江戸時代中ごろの人。親孝行な娘で、病で働けない父に代わり、幼い頃より山で拾った薪を一人で岡崎の町まで売りに行っていたという。その苦労を見た人が、病に苦しむ父のためにと薬を届けたところ、父がしばし苦痛を忘れるほどに効いた。その薬は14里も離れた池鯉鮒で売られているものと聞いたとらは、一日おきに薬を買いに出掛け、父に与えた。なんて孝行娘なんだ!と岡崎城下で評判になっていたのをたまたま岡崎に来ていた巡検視が耳にして薬代を与え、のちに岡崎城主に報告すると城主からも褒章が与えられた…。

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 とら像からすこし登った所には、享保18年(1734)に建立されたとらの顕彰碑「孝婦碑」もあります。見事な太文字に、神様でもないのに祠のような立派な屋根付き。背面にはとらの孝行っぷりが漢文でびっしり。たいへん尊敬されていたことがよくわかります。
 ちなみに古部からは、のちに「孝子佐左衛門」「孝子浅右衛門」という孝行者が現れ、ともに領主より米三俵白銀二枚が与えられたと、郷土誌に書いてあります。とらの逸話が村人たちにいい影響を与えたのでしょう。古部はまさに「親孝行の里」。
(まさ)
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カンバンの手帖ブログ版0352

2017年07月26日
 春夏秋冬叢書「そう55号」連動ネタ。
 毎号やってる「地名探訪」では、古の付く地名として豊川市の当古(とうご)を取り上げてみました。当欄はキーワード縛りの都合上、マイナーな集落をピックアップせざるをえないことが多いのですが、今回は姫街道の豊川渡河点にある集落ってことで、比較的知られたところではないかと思います。そうか?

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 豊川右岸堤防からみたガラス温室&当古の家並&本宮山。

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 堤防を下りて家並の中に入り込むと、セコというには広すぎる細道がうねうねと入り組んでおります。シブい、シブすぎる!なお、この写真の見どころは、槇の生け垣・コンクリート板・コンクリートブロックと「東三河の農村でよく見られる塀の様式三種類」がぜんぶ写り込んでいることです。
 で、取材のために集落内の旧姫街道を久し振りに徘徊してみたところ、廃商店にこのようなものが残されているのを発見。

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 商業団体加盟店の行燈型カンバンだ!その名も「豊川たのしみ会」。“お”を付けていないところがまたなんとも昭和的で、そのストレートな名称にグッとくるのは僕だけではないはず。僕だけ?

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(2003.09.04。下も)

 以前、これと同類のものに旧一宮町で遭遇したことがあります。砥鹿神社門前にあった大門屋という酒屋さんで、一宮町商工会の「おたのしみ会」のカンバン。大黒さんのロゴ(?)が超絶シブい。

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 この「おたのしみ券」の現物なんてどこかに残っていないだろうか。そういうものも、もうそろそろ資料的価値が出てきそうな時代。
(まさ)

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瀬古サンプル

2017年07月21日
 春夏秋冬叢書「そう55号」連動ネタ。
 先述のとおり渥美半島には「○○瀬古」という小字が40ほどありますが、中でももっとも分かりやすいのが旧渥美町・泉地区にある内陸の小集落、馬伏(ばぶし)。



 ご覧のとおり、人家密集地は「中瀬古」「西瀬古」「東瀬古」とキレイに分かれています(ドラッグすると東瀬古も出てきます)。
 幹線道路からやや離れたこの集落は、東三河フリークを自称するわたくしもこれまで気に留まったことがなかったので、カメラマンAさんと昨年9月に渥美半島の瀬古を巡った際、いい機会なので行ってみました。

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 中瀬古である。

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 西瀬古である。

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 東瀬古である。うーん、シブい、シブすぎる!
 あまりの渋さにカメラマンAさんも、どう撮ったらいいものかと苦慮しておられました。この企画については、僕の担当は文章だけなので気楽なもんです。なお、ここで撮影された写真は本誌に掲載されておりません。
 ところで、地図を見ると分かるように西瀬古と中瀬古はほぼ正方形の区画が三つ並んでいます。実際に歩いてみると、ド農村なのになんだか妙にスッキリ感があって実に不思議。僕もかなりの集落に足を踏み入れていますが、こんな奇妙な感覚になる農村は珍しい。
 歩いているときたまたま出会った元教員の方によると、ここは明治時代に区画整理が行われた先駆的地域とのこと。へぇ~!

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 村をウロウロしていたら立派な銅像に遭遇しました。この人は大久保作吉といい、大正13年に旧渥美郡泉村に酪農を導入し発展させた郷土の偉人です。
 ネットで拾った「泉校区まちづくり推進計画書」によると、明治41年に作吉さんの指導により「集落移転と宅地整理事業が行われ、平均化された宅地(1戸当たり8畝)の造成と道路の拡幅が実現し、現在の地区の骨格が形成」されたとのこと。といこうとは、その時に瀬古の付く小字を制定したことになります。実にシブく、興味深い話ではないですか。そう思うのは僕だけ?もうちょい突っ込んで調べてみたいネタですので、詳しいことはいずれまた…。
(まさ)

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瀬古ビッチ&ドワルスキー

2017年07月14日
 春夏秋冬叢書「そう55号」連動ネタ。
 セコは基本的に「狭い道」を意味すると書きましたが、田原市に行くと「瀬古」の文字を当てる小字が40ほどあります(例:野田町辻瀬古、福江町上紺屋瀬古など)。大学時代に豊橋に住んでいた僕は「セコは道の意味」との認識があったので、これはどういうことかと前から疑問に思っていたのですが、今回の取材で渥美の方に聞いて初めて謎が解けました。本誌にも書いたとおり、渥美半島でセコといえば、集落の一部分の集まり=コミュニティのことだったのです。それが小字の地名として現れる場合もあれば、地名ではなくても隣組のような集落内組織を「セコ」と呼んだりもしているとのこと。

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 それを端的に表わすモノが何かないかいな…と考えたとき、旧赤羽根町赤羽根地区の秋葉山常夜燈を思い出しました。

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 台座部分に「瀬古中安全」と記されています。この箇所は「村中安全」となっている場合が多いのですが、赤羽根では村を意味する言葉が瀬古であることを、これが示しているのです。
 この常夜燈は字枝古ですが、地元の人に聞いたところ自分たちの村のことを「枝古瀬古」と呼んでいるとのこと。
 これで赤羽根の瀬古にいい感じのセコ道があれば完璧ですが、そう都合よくはいかない。細い道こそ多いものの軽自動車なら通れたり、雰囲気的にもうひとつパンチがなかったりと、いささか微妙。
 
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 字枝古と字市場の境に一本だけ、このような味わい深い道を見つけたのですが、木立の中に入り込んで行くこの道は「建物と建物の間に通じる小道」というセコの概念とはちょっと違う。

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 この道を抜けると海岸に出ます。おお、雄大。こんな景色を眺めていると、チマチマとセコ探索しているのがアホらしくなってきますネ!
 などと言いながら、三河湾を挟んだ一色や幡豆でもセコを小集落の意味で使うと書かれている郷土資料もあるので、このネタはもう少し追究してみたいところではあります。
(まさ)
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三浦さんと杉山さん

2017年07月05日
 春夏秋冬叢書「そう55号」連動ネタ。
 カメラマンAさんとともにいざ形原のセコに入り込まんとしたとき、県道321号沿いでこのような石像を発見。

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 三浦萬太郎という人の像です。どんな人だったのかが台座の裏に刻まれており、以下要点。

◎明治2年に形原本町で生まれた医師で、慈善事業に情熱を注いだ
◎その形原本町は土地不足解消のため大正末年から昭和4年にかけて海岸の埋め立て工事が行われ、土地造成後に造られた道路の建設費用を萬太郎氏が寄附した
◎埋立地は「三浦町」と名付けられた
◎萬太郎氏は昭和16年没、石像は昭和19年の建立(なぜ戦時中にこのようなものを?)

 地図を見ると三浦町の地名は小字として今なお生きています。

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 このような見事な石像を作ったのはやはり岡崎の石工なのかなと思ったら、地元の石工・杉山喜平治の名前が刻まれていたので驚いた。おお、形原にも名工がいたのか!
 そこではたと気が付いた。このレベルの石像を作ることができる人ならば、二宮金次郎もお手の物ではないか?

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 そこで「そう43号」でやった「東三河の小学校の二宮金次郎を全部撮って載せる」という無謀な企画のために撮影させてもらった形原小学校の金次郎像の画像を見直してみたところ、うーん、ちょっと作風が違うかなあ…。
 もしこの金次郎が杉山喜平治の作品であることが判明すれば、金次郎研究業界に一石を投じることになるのだが。何か調べる術はなかろうか(そんなこと調べてどうするという話もあるけど)。

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 ついでに書いておくと、形原小学校にはなぜか二体の金次郎像があり、もうひとつは陶製です。どうゆう事?
 杉山喜平治のことはぜんぜん調べておらず、なんとなく郷土史等にも記載がなさそうな気がするので、もしこの人について何か知っている人がいたらぜひ教えてください。

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 ということで、最後は形原・三浦町の船だまり。
(まさ)



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アターシャ&世古ビッチ

2017年07月04日
 春夏秋冬叢書「そう55号」連動ネタ。
 今号では旧知のカメラマンAさんと組んで、東三河の「セコ(世古・瀬古)」をひたすら巡ってみました。セコというのは基本的に「狭い道」という意味で、主に東三河南部、知多半島南部、伊勢志摩あたりで使われている言葉です。意味の通る漢字を当てると「狭処」になり、ケチ・ズルい・下手などを意味する「セコい」とは語源が違うので念のため。

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(蒲郡市三谷)
 
 このような、家と家の隙間に通じる車が入れない狭い道のことですね。もはや年寄りでないと分からない言葉かもしれません。三河方言のひとつではあるのですが、地名や方言の辞典を見ると茨城や愛媛でも同じ意味で使われているらしく、こういう場合は方言としていいかのか門外漢には分かりかねますが…。
 ただ、東三河でも渥美半島に行くとニュアンスが異なり、「小集落」「コミュニティの単位」の意味がある…というようなことを記事では書いております。詳しくは本誌を買って読んでください。

 で、本誌ではセコ概論を書いただけで規定の文字量に達してしまい、おすすめスポットに言及する余地がなかったので、ここで紹介します。東三河を隈なく歩き回ったマニアがおすすめする最大のセコタウン、それは蒲郡市の形原だ!

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 セコ道じたいはどこの町や集落に行っても見つけることができますが、味わい深さ・密集ぐあい・迷い込んで楽しめるかどうか等の観点で見ると、意外に「これぞ!」というのがありません。その点、形原のセコ群はまるで迷路のように入り組んでおり、いい塩梅のセコ坂道が多く、景観的なバリエーションも多彩で、実にレベルが高い。

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 黒板壁に挟まれたセコ。

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 海がチラッと見えるセコ。

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 製綱工場の脇を通り抜けるセコ。

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 そして名鉄蒲郡線沿いのセコ。ここは高台を掘割でぶち抜いたためにセコが線路で寸断されてしまったところで、セコ坂はその代替ルートとして付けられたようです。
 以前、飛騨金山が路地めぐりで売り出し始めたことを書きましたが(→●□)、いずれ形原でもセコが地域おこしに活用される…なんてことは、あまりにシブすぎるのでたぶん難しいでしょう。
(まさ)

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オールドキャッスル

2017年07月02日
 発刊からだいぶ経っておりますが、春夏秋冬叢書「そう」55号が発売中です。今号のキーワードは「古」。私は例によって「地名探訪」「三遠南信産××育」に加えて、東三河方言のひとつ「せこ(世古・瀬古)」と飯田線長篠城駅の前名の「長篠古城趾駅」の文章を、女性取材記者(まり)は飯田市の飯田高校にある日本最古の現役ピアノを担当しています。
 私の書いた記事のひとつ「長篠古城趾駅」は、開設の経緯を探ってみたら意外なドラマがあった、という内容です。

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 詳しくは本書を買ってご覧いただきたいのですが、要点は以下のとおり。

◎大正時代、忠君の手本たる鳥居強右衛門を顕彰する機運が地元で高まっており、関連する重要史跡である長篠城跡を横切る鳳来寺鉄道の敷設工事対して反対運動が起きた
◎それに対して鳳来寺鉄道は「スンマセン、城跡の近くに駅を作らせてもらいますんで…。あと、本丸土塁を壊すのは最小限にとどめますんで、どうかひとつ…」と地元と覚書を交わした

 つまり長篠城駅は、バーターで生まれた駅だったのである!
 とはいえ、鉄道側は観光客誘致のために最初から駅を置くつもりのところ、横槍が入ったんでこのタイミングで話を出して反対の声を収めた、という可能性もありますが…。

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 でもって覚書を交わして工事した結果、このような形状になったと。最小限といっても合理的に考えればこのルートで線路を敷くしかないわけで、本丸土塁がざっくり切り取られています。
 手前の踏切は旧駅名を思わせる「古城跡踏切」という名称。これを渡ると野牛郭跡を経て寒狭川・宇連川合流点の川岸まで下りられます。

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 ちなみに、開通当時のこのあたりの様子を写した絵葉書が、近くにある医王寺(武田勝頼が本陣を置いたことで有名な寺)の資料室に展示してあります。さらにちなみに医王寺には民具等の収蔵庫もあり、そこには豊鉄田口線三河大草駅の駅名標も保管されているのでマニアは必見!

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(1995.04.18)

 古い絵葉書を出したのでオマケ、開業以来の駅舎があったころの長篠城駅も。
 鳳来寺鉄道に対する反対運動の経緯については、長篠城址史跡保存館元館長の山内祥二さんが編集された「報告書 丸山彭の世界‐初代館長の二十年‐」という労作に詳しく書かれてて非常に面白いので、興味のある方は新城の図書館あたりでぜひご覧ください。
 あと、鳥居強右衛門に関してはこちらも→●□●□

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