MCと舞踊

2016年05月29日
 もう三週間も前になりますが5/8、仕事の発注元の方が山車を曳くというので、岡崎の能見神明宮大祭の「宮入り」だけ見に行ってみました。提灯を下げた八台の山車(やまぐるま)が1時間くらいかけて氏子地区を曳き回され、揃って神明宮に戻ってくるという祭礼のクライマックスです。岡崎三大祭りのひとつと称されているだけあり、けっこうな人でにぎわっておりました。

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 これまで愛知と岐阜の山車祭りをけっこう見てきておりますが、他で見たことがなかったこの祭礼山車のポイントは三つ。
 一つ目は、やや小ぶりで「屋形船風」であること。 乗っているのは太鼓、笛、三味線など老若男女混成のお囃子部隊で、装飾の華美を競うよりも、演奏者を乗せるという機能性が優先され、このような形状が採用されたのでしょうか。郡上踊りや新野の盆踊りなどでは踊りの輪の中心にお囃子の櫓が設置されていますが、これに車輪を取り付けたようなものか?
 それにしても和装女性の三味線とは、優雅!祭りというよりお座敷の雰囲気である。
 二つ目はMCの存在。マイクを持った人が山車に随行し「こちらは松本町の山車です。神明宮大祭、まことにおめでとうございます!」みたいなアナウンスをずーっと続けていたのには驚いた。なんというか、祭りというより選挙カーである。

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 そして三つめは山車付属の舞台。神明宮にすべての山車が戻ってくると、山車の前から板が引っ張り出されて舞台が設えられ、各町の代表がめいめい日本舞踊を披露するのである(日本舞踊じゃないところもあったかも)。粋なもんだ。

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 目の前で見ていた松本町は、日舞のお師匠さんのような方が艶やかに舞い踊り、「ト~シちゃ~ん!」(ヨシちゃんかも)と熱い声援が飛び交った。それを聞いてニヤッと笑ったお師匠さんの顔がたまらんかったです。
(まさ)
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西三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)

桜町駅の観察

2016年05月28日
 シリーズ終了と言いながらまだ飯田ネタですが、ストリート名称チェックで市街北部の桜町をうろついたついでに、飯田線の桜町駅も観察してみました。昔ながらの駅舎が残っているのですが、JR東海でよく見られる壁面の新建材がちょっと興をそぐので(別名、パッとサイデリア駅舎)、今までじっくり見てこなかった。
 改めて眺めると、ここ、もしかすると駅構造観点では文化財クラスではないか?

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 駅舎入口に取り付けてある「建物資産票」を見ると建築は昭和22年12月で、市街地が灰燼に帰した「飯田大火」の後になります。旧駅舎が燃えて再建したのか、それとも火事とは関係ないのか、調べてこなかったのでわかりませんが。
 ポイントはまず、駅舎が少し高くなっていて階段を登る点。駅舎玄関には庇が大きくせり出し、横には駅舎の三分の二ほどの大きさがある上屋付き、シンプルな小駅ながら風格を感じさせます。この上屋は小荷物用か?そして駅舎の傍らにはタクシー呼び出しボックス。まさしく田舎の駅の完璧な構造!

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 ボックスの中にはハンドルが付いた専用電話が!脇に置かれた「週刊漫画TIMES」がまた味わい深さを引き立てる。

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 さらにその横にはブロック状のガラスを贅沢に使ったトイレが!昭和50年代の標準形という感じ。

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 ホームに上がれば柱の列がなんと美しいことか。

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 そしてポスト&ショボい駅名プレートより目立つオリジナルのサイン。いつ、誰が、なんのために設置したんだ。
 郷土研究レベルの高い飯田市なら、これら全部ひっくるめて文化財価値を見出してくれることと思います。
(まさ)
伊那谷雑 | Comments(2) | Trackback(0)

タウンサインの研究0068

2016年05月26日
 飯田ではもうひとつついでに、鼎のストリート名称もチェックしてみました。
 鼎は飯田市街の丘の下にある東西に長い地区。旧下伊那郡鼎町が飯田市に合併したのが昭和59年と遅かったこともあってか、飯田市街から至近なのにいまだにどことなく独立した町のような雰囲気を持っています。

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 鼎の街灯サインは、写真左上に見えるものが基本形。ササユリと思われる花(旧町花?)と地名(大字)の組み合わせ。下茶屋のほか上茶屋、切石でも同じものを発見。

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 大字以外のストリート名称は三ヶ所で確認できました。一つは地区の最東端に位置する「東鼎通り」。新飯田橋南詰から先の国道151号にこの街路灯サインが設置され、土偶のようなナイスなロゴがあしらわれています。

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 地区の中ほど、つまり鼎駅の付近には二つの商店街組織があるようで、ひとつがこの「鼎中平商栄会」。

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 もう一つが「鼎文化センター通り商栄会」と、なかなかシブいストリート名称を名乗っています。どっちかを銀座通り、どっちかを中央通りにしてもよさそうなもんですが、文化センターが鼎でもっともシンボリックな存在だったのでしょう。

160525-6.jpg※クリックで拡大します

 でもって、例によってストリート名称マップを作成したところで、三遠南信のローカル銀座&その周辺シリーズはこれにてオシマイ。
(まさ)
伊那谷雑 | Comments(0) | Trackback(0)

飯田の教育

2016年05月25日
 三遠南信の最高峰図書館、飯田市立中央図書館で銀座のことを調べていると、飯田にあった「二本松遊廓」のことが書いてある資料にも出くわしたので、ついでに見に行ってみました。
 場所は市街北側。伝馬町一丁目から東へ伸びる中之町の通りをずんずん進んだ突き当たりで、住所表記でいうと「飯田市二本松」の区画がそのまま遊廓跡になるようです。

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 飯田は河岸段丘上の緩い傾斜地に市街地が広がっていますが、二本松が位置するのは丘の外れ。なるほど、の立地です。街路はほぼ往時のままのようですが、遊廓跡を思わせる遺物は皆無で、現在は普通の住宅地になっています。
 二本松遊廓に関しては、飯田市美術館と柳田國男伊那民俗学研究所が編集した「飯田・上飯田の民俗1-飯田市地域史研究事業民俗報告書6」に詳しく書かれています。ここから歩みを拾ってみますと、明治15年開楼-戦時中に休楼-昭和24年再開-売春防止法の施行より一ヶ月ほど早い昭和33年2月18日廃楼。店は休楼までは10軒ほど、廃楼時は5軒。
 この資料には、実際に通った経験のある人への聞き取り調査も掲載されており、たいへん興味深い内容です。大平(伊那と木曽を結ぶ街道沿いにあった宿場町で今は廃村)出身の昭和5年生まれの方のコメントが面白い。

「昭和二十年代後半に度々通った。当時は大平に棲んでいたが、行きたくなると気がはやって飛ぶように山を下った。炭を作っていたので、支払いの足しに担いでいった。炭の元は充分に取ったと思う。」

 炭で女郎買い!?粋だねェ。山ばかりの伊那谷だけに、この方のように飛んで山を下り二本松に駆け込んだ男は多かったことでしょう。
 それにしても、遊廓の調査と記録を市が関係するオフィシャルな報告書に収録するというのは、さすが郷土研究がハイレベルな飯田です。遊廓の記録をロクに残していない豊橋あたりとは意識の高さが段違いと言わざるを得ない。

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 繁華街の伝馬町から二本松遊廓へは、この中ノ町を通ります。いわば遊廓へのアクセス道路。この町名、吉原のメインストリート「仲之町」から取ったのかと思ったらそうでもないらしく、「江戸町と馬場町の間に町屋であったから初め中小路と呼んでゐたが、後中ノ町と言うようになったのであろう」(村沢武夫『大火前の飯田』/昭和23年)という。

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 この通りには、昭和13年に建てられた見事な洋風建築の「下伊那教育会館」があります。遊廓至近に教育関連機関というのもなかなか凄い。「ここを遊廓へ行こうとする青少年の防波堤にしよう。そして我々教職者も頻繁に見回りを…ヒヒヒ」という発想があったことは想像に難くない。いや知らんけど。
(まさ)
伊那谷雑 | Comments(0) | Trackback(0)

タウンサインの研究0067

2016年05月21日
 昨日の続きで飯田市街地。
 飯田市街のストリート名称や商店街名称は、現行地名がほぼそのまま踏襲されているため、三遠南信の他市町のように古地図や資料を駆使して解析する必要はありません。数少ない例外がピアゴ飯田駅前店横のこの通り。

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 右奥の白く大きな建物がピアゴ、写真左側が中央通り四丁目、右側が東和町一・三丁目になるこの商店街は、その名も「ユニー通り商店街」。

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 ユニーのブランド名が消えて久しいが、いまだにその名がこうして生きていようとは!
 教委発行の「飯田・上飯田の歴史 下」によると、ユニー飯田駅前店の開店は昭和49年。ルーツは知久町にあったマルサンという老舗商店で、ユニーの前身である西川屋の傘下に入り知久町でスーパーを開店し、次いで駅前に移転したとのこと。開店当日は飯田線に乗って郊外からも続々客が押し寄せたそうな。
 一週間後には銀座三丁目に西友飯田店もオープンし、この年は飯田の商店街の大転換期だったようです。この時期の地方都市における商業状況(大規模店の進出と既存商店街の衰退開始)の典型例といったところ。
 以下、飯田市街で見かけた商店街&街路灯サインをいくつか。

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 ユニー通りと同じく歩道アーケード用サインのある、通り町一丁目。通り町は一から三丁目までありますが、城下町時代は一から順に番匠町、池田町、田町と称していました。村澤武夫著「大火前の飯田」によると大正10年、これらの町の協議により「通り町」に改称されたとのこと。新町名の由来はこれには書いてありませんが、知久町と広小路(のちの銀座)に対抗すべく連合したのでしょう…か?

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 以前も載せましたが、伝馬町の歩道アーケード用サイン。ユニー通りや通り町に比べて色使いが明るい。

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 飯田線桜町駅前から伝馬町まで続く桜町通りのサインは、上の三つよりも新しい。

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 知久町一丁目の街路灯用サインは、ちょっと凝ったデザイン。

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 松尾町一丁目は行燈風街路灯に松と一のデザイン。

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 銀座の新旧サインには人形があしらわれていますが、これは昭和54年から続く人形劇フェスタ(当初は人形劇カーニバル)に由来するもの。
 他のストリートのサインもだいたい押さえているのですが、アップが面倒だしそんなに書くこともないのでこのへんで…。
(まさ)
伊那谷雑 | Comments(0) | Trackback(0)

ローカル銀座の真打

2016年05月20日
 そう50号連動ネタの「ローカル銀座考」シリーズ。最後は飯田。やっとここまでたどり着いた。かつて立川談志は参院選全国区で全候補者の最後に当確を決めたとき「真打は最後に上がるもんだ」と言ったそうですが、三遠南信の銀座で名実が伴った唯一の飯田銀座こそ、真打と呼ぶにふさわしいと言えましょう。

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(銀座一丁目より南を望む)

 これが真打である。この写真だけ見ても真打に見えないかもしれませんが…。商店数、歩行者数、金をかけたと思しき凝った街灯、歴史など、すべてが真打の風格を備えているのであります。本誌で触れましたが、三遠南信で戦前から銀座を名乗っているのはここだけ。
 歴史を辿ると、江戸から明治までは飯田城の外堀に沿っていることから「堀端」と呼ばれていました。城郭破却後、堀が埋められ道が広がってから商店が集積し、明治30年に広小路と改称しています。

各戸軒燈に瓦斯燈六十個をつけてそれに『広小路』と明示した。京都や名古屋方面に習って角四方ガラスみこしの屋根のモダン型で、鐵さび色(あづき色)のペンキ塗りとした。
(「思出の飯田」飯田史談会編/昭和23年)

 ガス燈設置を機に広小路と命名し、そのネタ元は名古屋の広小路である可能性が窺えます。

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(銀座五丁目から北を見る)

 広小路がさらに銀座と改称したのは、昭和6年12月6日。今度は、道路の舗装工事が完了したタイミングです。ライバル商店街の知久町も同時に舗装され、三日間は両町が記念セール合戦を繰り広げました。以下、そのときの新聞記事。

街は化粧直し
舗装道路祝賀の用意整ふ 恵比寿講そっちのけ 売出し三日ぶっ通し

 飯田広小路知久町両町の舗装道路完成祝賀大売出しは今六日より七八三日間に亘り盛大に催す(中略)六日朝開店とともに各商店では個々に景品を出し大廉売を行い、西田梅花連の囃子屋台、手踊も出る。七日は知久町の音楽隊が祝賀曲を奏し両町を練り歩き、広小路は飯田銀座に改称披露を■て、過日入選した行進曲を早速飯田芸妓が西川流の踊りに振り付け、芸妓五名踊り、ラヂオセットの囃子屋台を引き回す。
 今日六日を限り広小路の名は永遠に消えて新しく飯田銀座が生まれるんだ。行進曲は東京行進曲を取って唄い易く洋楽と和学を混ぜて、発表するため数日練習を続けてきたいる。とまれ両町にとっては恵比寿講以上の大売出しだ。

(南信新聞 昭和6年12月6日付/句読点・改行は筆者、一部読みやすく修正、■は判読不能)

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(知久町二丁目)

 銀座の名称は、城下町以来の商人町である知久町へのカウンターになります。広小路の名を30年ちょっとであっさり捨てたのは新興商業地らしい。知久町がそのままで通したのとは対照的です。
 ちなみに、ローカル銀座の発祥は東京の戸越銀座とされ、大正12年に本家のお墨付きを得て名乗っています。つまり、飯田の堀端が広小路と改称した時はまだ銀座を使うことは一般的ではありませんでした。大正後期にローカル銀座が発生し、流行に乗って、というか先駆けて、銀座と改称したというわけです。
 豊橋の広小路(→●□)は大正14年ごろに新停車場通りから改称したということですが、この時期だと銀座を名乗るのにはチョイと早かった、とも言えます。

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(中央通二~三丁目)

 飯田にはもうひとつの商店密集ストリートに「中央通」があります。もとは「荒町」と呼ばれ、途中で鉤型に折れ曲がっていました。大正12年に伊那電気鉄道が開通して駅まで道が伸び、昭和22年の飯田大火後の区画整理に伴って、現況のように滑らかな道筋に改修され、名称も上荒町・中荒町・下荒町から中央通に改称されたようです。
 通りの起点は飯田駅ですが、なぜか駅前通りとは呼びません。これは銀座や知久町のカウンターというより、火災復興区画整理における最大改修街路のひとつだったので、事業のシンボルとして「中央」を採用したんじゃないかと僕は見ますが、どうか?
(まさ)

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オマケ。南信新聞に掲載された銀座&知久町舗装記念大売出しの広告

飯田銀座はこちらも→●□
市街北部の商業地、伝馬町→●□

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伊那谷雑 | Comments(0) | Trackback(0)

カンバンの手帖ブログ版0332

2016年05月18日
 そう50号連動ネタの「ローカル銀座考」シリーズ関連で、佐久間に続いて水窪を。
 水窪の中心部は秋葉街道に沿って南北およそ2キロにわたる市街地があり、地形的に隔絶していることもあってかなりデカい町という印象を受けます。南から順に見ていくと、以下のとおり。

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 本町である。

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 大里(だいり)である。

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 小畑(おばた)である…って、ストリートビュー的な写真を三枚連続で載せたところで、何がどう違うというんだという話ですが。
 町の構造は設楽町田口と同じ(→●□)、と言えば東三河の人ならわかっていただけるでしょうか(わからんか)。パッと見では3地区均等に商店があり、勢力は拮抗している感じ。小畑の商店主に聞いたところ、このうちどれかが銀座と呼ばれた覚えはないとのこと。 
 しかし、その小畑でこのような案内板を発見して頭に疑問符が。

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 なんだ「栄町商店街」って!
 先の店主に聞いても「栄町なんて言ったっけか?」と首をかしげており、この呼称がなんなのかよくわかりません。ローカル銀座の法則に照らすと、「本町」があって「小畑=栄町」なら、大里が銀座になるとしっくりくるが…。地元からの情報求ム。
(まさ)
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遠州雑 | Comments(0) | Trackback(0)

新・蔵の町

2016年05月17日
 そう50号連動ネタの「ローカル銀座考」シリーズ関連で、北遠からも銀座のない町の例を。

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 旧佐久間町で商店が集まっている地域は、大きい町から順に浦川(→●□)、中部、西渡(→●□)、佐久間、城西の5か所。このうち浦川だけ街路が若干入り組んでいますが、いずれも複数の商店街組織を置くほどの規模ではなく、従って銀座の存在も聞きません。えー、以上です。
 写真は飯田線中部天竜駅対岸の、高校と病院の町、中部(なかっぺ)。昭和29年に豊橋のヤマ六鉄工所が建設したHINOMIはまだ生き残っております。
 この3月、水窪取材の帰りに時間の余裕があったので久々に歩き、そういえば裏通りに入り込んだことがないなと思って路地に足を向けてみると、なかなかの味わいで驚いた。

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 というのは、表通りからはまったく見えない蔵が5、6棟、建ち並んでいるのである!この写真では「ハァ?」って感じだが、人がやっとすれ違える程度の狭い道に土蔵や煉瓦蔵が点在する景観は独特のもの。三遠南信では足助や飯田に蔵が多いですが、それらの商業“都市”とはまったく異なる風情です。

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 中には実に見事な鏝絵も。観光要素の強い町ならば「蔵の町」とか称して目玉にしそうな素材です。しかし、これまで旧佐久間町が路地裏の蔵群を売りにしたことはなく、この先も脚光を浴びることはないでしょう…。

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 あと、以前メインストリートにあったアーチ(→●□)と連動した街灯サインも残っておりました。激シブ!このまま撤去するのを忘れられて、末永く生き延びてほしいところ。
(まさ)
遠州雑 | Comments(0) | Trackback(0)

すべって二俣

2016年05月15日
 そんな二俣の小ネタ。

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 仲町に「天竜ファミリータウン」という、いかにも昭和50年代っぽいショッピングセンターがあります。ここ、一階は半地下、二階は二階というより中二階という不思議な構造。

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 その中二階への階段脇に側溝状の妙なものが。いったい何かと考えてみるに、こりゃ滑り台か!?いずれウチの5歳児を連れてきてモデル写真を撮らねば。

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 あと、昔から思っていたのだが、二俣本町駅の駅舎サインは子供のボール紙工作みたいである。
(まさ)

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◎マルカドブックス
3冊更新しました。

0228 熱い街で死んだ少女(トマス・H・クック)→●□
0229 戦場観光~シリアでもっとも有名な日本人(藤本敏文)→●□
0230 外道クライマー(宮城公博)→●□
遠州雑 | Comments(0) | Trackback(0)

天竜二俣におけるストリート名称の件

2016年05月14日
 そう50号連動ネタの「ローカル銀座考」シリーズ。
 今回の企画はローカル銀座の法則性を探るとかいう前に 「隠れ銀座を暴く」のが主眼でしたが、今ではまるで痕跡が見当たらない浜松市天竜区二俣の銀座は、三遠南信における隠れ銀座の際たるところでしょう。
 どこかというと、二俣川に架かる双竜橋から西へ3本目、道幅のそこそこ大きい南北の通りの北側約120mになります。メインストリート(クローバー通り商店街→●□)の西を並走する道です。

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 現役商店は5、6軒といったところ。通称は「西町」。商店街や街灯組織はとうにないらしく、歩いても銀座であったことを示すものは何も残っていません。
 手掛かりは、天竜図書館にあった昭和35年ごろ発行の「日本商工業別明細図NO.2001 静岡県てんりゅう」(東京出版)にありました。掲載されている200ほどの企業や商店の広告を見ていたらパチンコ屋と思しき「娯楽の殿堂 銀座ホール」というのがあり、そこに唯一「銀座通り」と所在地が記載されていたのです。地図を頼りに界隈に行き、老舗薬局の老店主に聞いてようやくここが二俣の銀座であることが判明。

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 老店主によると、古くはこの道が浜松-二俣-北遠各所への街道筋だったとか。現クローバー通りである国道152号旧道が開通したことで、メインストリートの地位から転落したそうな。
 昭和48年度「天竜市広域商業診断報告書」には以下のような記載が。

 当商店街は吾妻町の西側を双龍通りから吾妻町に至るL型の道路沿いにある。昔、この通りは二俣の本通りであったが、152号線の付け替えにより裏通りとなった。
 道路条件の変更、更に23年の火災などにより転廃業する商店が生じ、現在は歯抜けの商店街となっている。だが、盛時を偲ぶものとして、双龍通り入口に、商店街のアーチ
(筆者注・上の写真の場所)があり、この付近に商店が集結している。
(中略)
 会名を「西町銀座」と称し、35年に設立し、会員数は12名(うち商店は10名)である。月200円の会費を徴収し街路灯の維持にあてている。次に、共同経済活動は、商店数の少ないこと、経営意欲の低いことなどから活動はほとんどしていない。

 ここの銀座は旧国道152号沿い商店街のカウンターとして昭和35年に出現したものの、昭和48年の時点ですでに衰退していたということになります。

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 一方メインストリートの方は、南から順に吾妻町・新町・神明町・仲町から成っていました。現名の「クローバー通り商店街」の名前は、母体がこの4つの商店街であることが由来のようです。

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 ついでに書くと二俣は、本来の中心部だったと思われる「本町」が寂しい状態で、昭和35年頃の地図を見ても商店は少ない。これは現国道152号の「城下通り」開通の影響と思われます。
 ということで、例によってストリート名称マップ。

160515-1.jpg※クリックで拡大します

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 オマケ。件の昭和35年ごろの地図に載っているパチンコ屋「銀座ホール」の広告。
(まさ)

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遠州雑 | Comments(0) | Trackback(0)

恋のアーケード0005-3

2016年05月13日
 前にも触れましたが(→●□)、砂山銀座西口と垂直に交わる通りは「サッポロ街」といい、ものすごいアーケードが現存しています。

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 入口では割にしっかりしたカンバンが出迎えてくれますが、一歩中に足を踏み入れると屋根に驚嘆。

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 西の岡崎松本町(→●□)と並ぶ三遠南信の二大悶絶級アーケードだ!
 今回は銀座で頭がいっぱいだったのでここについては何も調べていませんが、砂山銀座の商店に聞いたところかなり前からある純然たる飲み屋街で、サッポロビールがスポンサーになってカンバンを作ったからこの名になったからとか。店舗名を記したカンバンが新しげなことからもわかるように最近まで7軒あり、そのうちタイ料理店は近年の新規店だったそうだが、現在やっているのは2軒のみという。

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 わたくし酒はほとんど飲めず、一人でこういう店に入るようなオトナなこともできませんので、入口すぐのラーメン屋で地元民ヅラして晩飯食って帰ったのでした。
(まさ)
遠州雑 | Comments(0) | Trackback(0)

恋のアーケード0005-2

2016年05月12日
 そう50号連動ネタの「ローカル銀座考」シリーズ。
 浜松の銀座は、浜松駅南の「砂山銀座サザンクロス」です。ここには昭和43年に初代が建設されたアーケードがあります。本格的な全覆型(歩道だけでなく道路全面を覆うタイプ)は浜松市街でここのみ。浜松商店界連盟が制作した30周年と50周年の記念誌を見ても他の商店街で全覆型アーケードを作ったという記述はありません。過去を遡っても遠州唯一の全覆型アーケードかもしれません(中東遠は詳細調査していないので、もしかしたら昔どこかにあったかも)。

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 老舗タウン誌の浜松百撰が編集した『「街は生きてきた」浜松商店界連盟創立30周年記念誌』(昭和54年)に歴史が詳述されているので、そこから抜粋してみますと…

明治~大正 界隈は「平田新道」と呼ばれる
大正12年 「松菱通り」の東海道線踏切が地下道化され、駅北と駅南が常時往来可能に。これを機に平田新道に商店が集まる
昭和初期 平田新道の商店が「励み会」を結成。東海道線以南で最大の繁華街として発展
昭和5年 浜松駅南口できる
昭和30年 有楽街(駅北最大の繁華街)に触発され、ネオンアーチ建設。
昭和43年 ネオンアーチの老朽化撤去、次いでアーケード建設


 いつ「銀座」を名乗るようになったのかは書いてありませんが、掲載されているネオンアーチの写真に光り輝く「砂山銀座」の文字が見えるので、これを作った時と思われます。
 この銀座の名称採用は、広く見れば駅北全域に対してのカウンター。本誌には「有楽街にクジャクのネオンができて、「負けてはいられない」と青年部が中心地となって作ったのだそう」とあるので、狭い意味では有楽街のカウンターということになるでしょう。

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 現況は残念ながら寂しい感じで、5年前に見に来た時よりも(→●□)商店が減っている模様。アーケード内の商店主に聞いたろところ、2015年末現在の現役はわずか6軒。2014年に浜松信金、2015年夏に静銀が町内から相次いで撤退したのが痛かったらしい。
 できればもう少し人がいる状態で写真を撮ってみたかったのだけれど、アーケード内で月2回開催している朝市イベントも「お客さんはパーッと買に来て、パーッと散っちゃう」という話だったので、まあいいかなと…。

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砂山銀座を含む東西の通り(竜禅寺街道)と交差する、駅から中田島への旧道

 アーケードの中だけ見るとややつらいものがありますが、アーケードの周辺にも商店や飲食店があるし、そもそも浜松駅が砂山町に含まれています。そういう意味では砂山銀座も「にぎわう駅南・砂山エリアのごく一部」と見なせばいいのだろうけれど、それにしても駅近の一等地にこれだけのアーケード設備、うーん、惜しい。
 昨今は維持の大変さからアーケードを撤去する例が多いし、今後の動向にマニアとして注目して行きたいところ。
(まさ)

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遠州雑 | Comments(0) | Trackback(0)

CDY in NDB

2016年05月06日
 先の日曜日、美浜町の野間大坊で開催された「大坊の楽市」へ取材リサーチに行ってみました。市は今回で2回目。知多半島屈指の観光名所でのGW開催なのでそれなりに人出があるとは思っていたが、予想以上の混雑で驚いた。それでも御住職曰く「1回目のほうが多かった」と。

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 昨今はやたらとマーケットイベントが多いですが、会場が緑に包まれ、かつこのような伝統的建築物がデーンと構えていると、イベントそのものの好感度が増すような気がします。そもそも神社仏閣と市は親和性が高く、このイベントも愛知県内に多い定期境内市(一六市、三八市等)と同じ系列というか、ハデ版というか。

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 会場イベントは大御堂寺本堂を舞台に、県内の真言宗豊山派若手僧侶による和太鼓演奏(震災義捐金チャリティー)。リーダーは林英哲の指導を受けておられ、なかなかの聴きごたえ。ラストの曲は「般若心経」であった。たまたま居合わせた白装束の巡拝者の方々も合掌し、太鼓に合わせて読経したのは言うまでもない。

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 あと、常滑のチンドン屋が会場内を練り歩いておりました。本堂とチンドン屋のものすごい取り合わせに唖然。知多四国霊場開創以来の珍事ではないか!?
(まさ)
知多雑 | Comments(0) | Trackback(0)

カンバンの手帖ブログ版0331

2016年05月04日
 その気賀市街地で発見した、知多関係のカンバンを二つ。

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 半田市亀崎に20年ほど前まであった酒・味噌の蔵元、伊東合資の「敷島」。
 旧引佐郡では敷島のカンバンをよく見かけ、今は銘柄委譲により安城の神杉酒造で醸造されている敷島の一升瓶が置いてある酒屋もあります。むかしどこかの酒屋で聞いた話では、豊橋に敷島を扱っていた有力な卸売業者があり、こちらのほうまで営業範囲にしていたとかなんとか。

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 INAX(LIXIL)の旧名、伊奈製陶時代のカンバン。これは初見、レアな一品!お膝元の知多半島では見たことがない。
もう一つ二つ知多モノがあれば知多のローカル媒体向け原稿にするところですが、そう都合よくネタは見つかりませんで…。
(まさ)
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清水と落合と中央

2016年05月02日
 そう50号連動ネタの「ローカル銀座考」シリーズ。
 中央だけあって銀座がない例には、浜松市北区の中心都市、細江町気賀があります。区制施行から10年近く経つというのにいまだに「北区」がしっくりこないのは僕だけではないと思う…。

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 町のド真ん中の「気賀四ツ角交差点」を核に、三ヶ日方面への姫街道が「中央商店街」。古い町名は「上町」になります。

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 気賀四ツ角交差点から落合橋~浜松方面への姫街道は「落合通り」。

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 そして気賀四ツ角交差点から清水橋~金指方面へは「清水通り」となっており、この三本が商店密集地として街灯に商店街/ストリート名称カンバンが取り付けられています。このほか、四ツ角から曳舟橋~舘山寺方面へは「曳舟通り」、落合橋と清水橋を結ぶ通りは「旭通り」の名がありますが、商店はパラパラとしかなく、ストリート名を記した街灯カンバンも見当たりません。
 上町を中央商店街としたのは、この通りに細江神社がありかつては官公署も並んでいたので、落合通りや清水通りに対してまさしくグレートセントラルという意識があったから、と思われます。また、上町の端のほうには「片町」の通称地名もあり、連合体としての中央という意味を含んでいるかもしれません。

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細江神社参道から中央商店街を望む

 ここにローカル銀座を考察するうえでのヒントがあります。つまり、町の最大の通りとの自負があり周辺からも認知されているならば、そこをわざわざ「銀座」と称する必要はないということ。「ローカル銀座はカウンターである」という法則は、こういう事例からも導き出しているわけです。
 もっとも、わざわざ銀座にしなくていいというのであれば中央とも付けなくてもいいのでは、と言えないこともないですが。あと、もしかしたら昔ほんの一時期だけ銀座と通称していた…なんて可能性もないとは言えない。ここは、現行銀座がないことが確認できたところで早々に撤収し、商店街組織の歴史など突っ込んだことは調べきれておりませんので…。
(まさ)

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銀座と中央~雄踏編

2016年05月01日
 ダラダラ続くそう50号連動ネタの「ローカル銀座考」シリーズ。ようやく遠州編に突入です。
 中心市街地を「銀座/中央」に分けた西小坂井のような例は、浜松市西区雄踏町宇布見にも見られました。

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 宇布見と旧東海道馬郡を結ぶタテの通りは「中央通り」。

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 宇布見から浜松市街に通じるヨコの通りが「雄踏銀座通り」になります。中央通りは写真のとおり交差点名称としていちおう生きているようですが、雄踏銀座通りのほうは商店主の何人かにリサーチしてみたところ、中高年には通じるものの商店街名としてはもうとっくに忘却の彼方という感じ。
 ちなみに昭和61年に発行された小学校の社会科副読本「わたしたちの雄踏」には、雄踏銀座は「学校通り商店がい」と記載されています。この本にはあと「中央通り商店がい」と、遠鉄の宇布見西ヶ崎バス停付近に「西ヶ崎四辻商店がい」の記載がありますが、それらも使われなくなって久しい模様。
 宇布見は、遠州西部の旧市街ではなかなか大きい部類です。以前も触れたように(→●□)商店街もかつてはかなり繁盛し、そのあおりで舞阪の商業が沈滞化したなんて話もありました。しかし商店がずいぶん減った現況では、東西にダラダラ長い中心部に商店が飛び石のように連なっているばかりで、なんかこう薄味というか散漫というか、グッとくる要素に乏しい…って大きなお世話か。

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 この町を走ってどうにも面倒なのが、雄踏銀座が東向きの一方通行であること。その距離、実に1.1km!長っ!そんなに狭いようにも思えないし、交通量もたいしたことなさそうなのに。
 資料によると、一方通行になったのは昭和48年11月から。町外から来る人にとっては不便ではありますが、町並マニアにとっては宇布見で数少ないグッとくるポイントのひとつなので、個人的にはずっとこのままでいいです。

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 薄味なので夜景も撮ってみました。
 実は今回の三遠南信の銀座取材では、どこも昼景にかなり厳しいものがあったので夜景も押さえています。が、やはり、にんともかんとも…。
(まさ)

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