銀座と中央~小坂井編

2016年04月30日
 まだ終わっていなかった、そう50号連動ネタの「ローカル銀座考」シリーズ。
 東三河には豊橋、蒲郡、新城の三都市に加え、小坂井にも銀座があります。狭い町域に商店が散在している小坂井には、一見まとまった商店街がないように思えますが、西小坂井駅前界隈に商店がいちおう密集しています。

160430-1.jpg

 西小坂井駅から県道384号(旧平坂街道)へまっすぐ伸びる約250mが「銀座通り商店街」。店は数えるほどしかないものの、西小坂井郵便局と豊川信金のキャッシュコーナーがあるので意外に商店街の風情を感じさせます。

160430-2.jpg

 銀座通りの中ほどで交わる通り(伊奈駅前交差点から中央公園に通じる道)にも商店が少しあり、こちらは「中央通り商店街」。
 西小坂井の現況からすると名称が大仰な気もします。しかし当地在住のカメラマンによると、かつての西小坂井は住友金属(軍需工場)跡地に昭和26年から操業を開始した富士紡績小坂井工場の「企業門前町」かつ国鉄官舎が建ち並ぶ「国鉄の町」で、人口も多く商業も盛んだったそうな。
 商店街が形成されたのは富士紡績などの工場ができて以降で、小坂井町誌(旧)によると昭和29年に西小坂井発展会が結成されます。二つの商店街名称はこのときできたのでないかと思われますが、この場合は銀座が中央のカウンターというわけではなく、メインストリートっぽい名称を二つの通りで分け合ったものと推察します。
 今も残る商店街名称は、ほぼ街灯維持のための組織のようです。ちなみに小坂井の街灯カンバンは「銀座通り」「中央通り」表記のほか、商店名を大きく記したものと、菟足神社の風祭りで売っている風車をあしらった「街を明るくする会」の4パターンがあります…が、まあ拡大して載せるほどのものではない。

160430-3.jpg
(2008.01.16)

 オマケ。キヨスクがあった頃の西小坂井駅。
(まさ)

160313-2.jpg
スポンサーサイト
東三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)

イシのまちのコッシー

2016年04月29日
 その石工団地で発見した、石の町らしいモノをいくつか。

160429-2.jpg

 ゴミ集積場の囲いがなんと石造り。贅沢!

160429-3.jpg

 側溝のフタが石切りカッター。ほぼアート!

160429-4.jpg

 団吉くんまつりの飲食バザーブースがかつての石の協同加工場。シブい、シブすぎる!梁の鉄骨とバラストがクールな空間を、紅白の幕がシュールな雰囲気を演出しております。

160429-1.jpg

 そして4歳児は墓石店の展示ルームに合掌!教育の賜物か、はたまた笑いを取りに行ったのか、わが子ながら判別が難しい…。
(まさ)

-------------------------------
◎マルカドブックス
5冊更新しました。

0223 竜の学校は山の上(九井諒子)→●□
0224 竜のかわいい七つの子(九井諒子)→●□
0225 ダンジョン飯(九井諒子)→●□
0226 風と共に去りぬ3~5/新潮文庫版(マーガレット・ミッチェル)→●□
0227 全身翻訳家(鴻巣友季子)→●□
西三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)

ダンキチfeaturing金次郎0002

2016年04月28日
 先週の土曜日、西岡崎駅近くの石工団地で開催された「石の掘り出し物市/第19回団吉くんまつり」へ取材2割遊び8割で行ってきました。岡崎の石造物は好物だけど易々と買えるものでもないしなあ…と思ってこれまで足が向かなかったのだが、子連れで行ってみたところかなり楽しめました。

160428-2.jpg

 目玉アトラクション(?)のひとつ、巨石曳き体験を楽しむ4歳児。岡崎城の石垣建設に駆り出された人夫の気分が存分に味わえる…という意図ではないと思います。花崗町が石屋街だった昔はこんな感じで巨石を運搬していたのだろうか?

160428-3.jpg

 石パズルを楽しむ4歳児。御影石と長机のこすれる音に僕は気が狂いそうになったが、妻子はそういうの平気な人であることを初めて知った。

160428-5.jpg

 親方の指導のもと石割体験を楽しむ4歳児。男子なので。あー、石マニアのおとうさんにもやらせてほしかった~。

160428-6.jpg

 で、石割体験をした店の展示ルームをを覗かせてもらうと、なんと古い金次郎が!聞けば矢作南小学校の旧像で、老朽化したので組合で作りなおした際、旧像の制作者がこちらの祖先だったので引き取ったとのこと(→●□)。端正かつ精緻な像で実に美しい。
 こちらでは最近制作した金次郎像も展示してあり、今でも一年に一体くらいは金次郎の発注があるそうな。どうせなら中国製ではなく、やはり岡崎製の「ホンモノ」を置きたいところですネ!

160428-4.jpg

 以前、金次郎像探索取材にさんざん付き合わせた4才児は「おとうさんは、金次郎がすきなんだよネ!」といちいち恥ずかしい指摘はするけれど、金次郎像じたいにはさほど興味を覚えないらしい(当たり前か)。かたや団吉くんにはテンションあがって、他の子供たちとともにまとわりついておりました。こういうところは普通の子供で、まあよかった.かな…。
(まさ)
西三河雑 | Comments(2) | Trackback(0)

豊橋中心市街地におけるストリート名称の件

2016年04月27日
 そう50号連動ネタの「ローカル銀座考」シリーズ。銀座通りを中心とした市街東部に続いて、駅前大通り・R259・R23・大橋通に囲まれたエリアからいくつか。

160421-3.jpg

 メインストリートの広小路は、明治45年に開かれた「新停車場通り」が起源で、「豊橋百科事典」(豊橋市文化課)によると大正14年に市内線が開通した頃から「広小路」と呼ばれるようになったという。僕は、名古屋の広小路にあやかった名称ではないかと思っていますが、確証はありません。
 現在の住所表記の「広小路一~三丁目」は昭和33年に制定されていますが、それ以前は通称として一~五丁目に分けられていました。「豊橋発展会連盟三十年のあゆみ」が発行された昭和55年当時は、旧通称に則して5つの商店街組織に分かれており、さらに前回書いた「広小路4・5丁目商店街振興組合」があるわけです。あーややこしい。
 写真は広小路の東口(三丁目)。以前はここまで歩道アーケードがありましたが、いつの間にか撤去されていました。

160421-4.jpg

 R259の西側は「新大手」。この道は昭和24年に開かれており、新大手通りのストリート名もそのとき命名されています。

160421-1.jpg
(2014.05.31)

 豊橋で少なくなった歩道アーケードが残るのが新本町。例によって「三十年史」によると昭和42年に建設されたのが最初。「三十年史」には、その直前に勃発した下記のような事件について記されています。

 41年町地内に中部電力都市型変電所設置計画を知り商店街の発展を阻害する反対運動で決起して血みどろな闘争を8ヶ月で妥結、中電買収用地の道路側を買収…

 血みどろとは穏やかでないが、学生運動真っ盛りの出来事らしい表現。イケイケな商店街だったことが窺えます。

160422-4.jpg

 豊橋駅北東一帯の松葉町界隈は、「松葉」を冠するストリート名称がいくつもあって広小路同様ややこしいことになっています(参考→●□)。そのうちの一本「松葉公園通り」。整然と区画整理された中、奇妙にポツンと残された斜めの道です。
 この道は、かつて駅から旧東海道の上伝馬・本町に通じていた「停車場通り」の残存道路なのですが、なぜこの部分だけ残したのか、謎。真実を知っている人がいたらぜひ教えてください。

160422-1.jpg

 かなり細かく分けられている豊橋市街の商店街/ストリート名称ですが、中には名無しのストリートも。ここは駅前大通りと広小路に挟まれた道で、写真左の豆腐屋さんに聞いたところ「ここが××通りなどと呼ばれていたことはないと思う」とのこと。ちなみに、右中ほどに見える木立は吉田天満宮&白山ヒメ神社で、先にいただいた誤解含みのコメントの「鋳銭所」は白山ヒメ神社にありました。これ由来で旧町名は「新銭町」。

160426-1.jpg

 というわけでストリート名称マップです。複雑すぎて正確かどうか自信がないので、地元の方に校正をお願いしたいところ。
(まさ)

160313-2.jpg
東三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)

豊橋中心市街地東部におけるストリート名称の件

2016年04月23日
 そう50号連動ネタの「ローカル銀座考」シリーズ。
 さすが豊橋は愛知県第二の都市だけのことはあり、商店街組織もハンパない数が存在し、ひいては商店街組織に基づくストリート名称もなかなか複雑です。その中からいくつか取り上げてみます。
 まずはR259の西側、豊橋銀座と並走するストリートを順番に見てみましょう。

160421-2.jpg

 銀座の隣りは「広小路4、5丁目」。なんかもどかしい名称ですが、商店街振興組合の組織名称がこうなっています。しかもややこしいことに、正式な住所表記だと大手町・神明町・新吉町・中世古町になり、そもそも広小路は3丁目までしかありません。
 前回記事の参考資料の新聞コピーを見ていただくとわかりますが、この通りはむかし「新広小路」と称していました。改称したのは昭和34年。新広小路のままでよかった気もするけど、どういう事情でこの名にしたのだろう?

160422-3.jpg

 続いて「大手町協和通り」。前回引用した「豊橋発展会連盟三十年のあゆみ」を銀座調査中にチェックするまで、ここにストリート名称が存在したとは想像もしていませんでした。現在、「協和通り」の名が分かる豊橋市民が果たしてどれだけいるのだろうか。。
 ここは旧町名の「手間町」(→●□)に相当する通りで、「三十年のあゆみ」には「昭和34年、町の舗装を機に街路灯設置の話が持ち上がり、それに伴って発展会を発足させた」とあります。つまり、街灯あってのストリート名称。そんなのでは、知っている人がいるかどうか以前に、ここがそもそも「協和通り」と認識されていたかも怪しい。
 そして以下、このようなテンションの低い記述が。

 発足以来20年間、何等自慢すべき業績も無く、名称そのままに只々、協和の精神を維持するのみにて、誠におはづかしい次第である。これが商店街を形成しない小さな発展会の宿命ではある。
 貴発展会の特徴を、原稿用紙にて200文字にまとめて提出せよと云はれても、会員12名の文字通り10本の街路灯をお守りするだけの、小さな発展会としては、どうにも筆が進まない。
 メガネ店、自転車店、筆墨店、印刷所、紙業、菓子店、タバコ店、洋服店、花店、理容店、畳店が、バラバラに軒を並べる発展会としては、さもありなんと思うのが特徴か?


 うーむ、先の銀座同様、実に正直な記述である。しかし「筆墨店」てのがどんな店だったのか、気になる。

160421-5.jpg

 それから「大手町観音通り」。こちらも同じく昭和34年の発足で、協和通りと同様の経緯で誕生したものと思われます。ストリート名称は竜拈寺観音堂に由来し、街灯には名称プレートが取り付けられています。
 あと国道1号までにもう一本、商店が点在する大通り「旧東海道」があります。しかしここは「三十年のあゆみ」には載っていません。商発展会組織が存在しなかったのか。あるいは存在したけど何らかの事情で連盟に加入していなかったのか?
 このあたりは突っ込んで調べておりませんので、情報をお持ちの方はぜひご一報を…。

160422-5.jpg

 で、これらの通りの起点にあたる南北の通りが「大手通」になります。

160422-6.jpg
「三十年のあゆみ」をもとに、例によってストリート名称マップを作ってみました。誤認箇所もあると思いますので、地元の方にご教示いただけると幸いです。※クリックで拡大します

(まさ)

160313-2.jpg
東三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)

街灯に残されたGINZA

2016年04月20日
 そう50号連動ネタの「ローカル銀座考」シリーズ。いよいよ真打登場、本誌お膝元の豊橋銀座でございます。
 豊橋銀座については以前も書きましたが、改めてそもそもどこなのかと言いますと、神明町の北端、新川交差点から向山アピタに通じる大きい道の一本北側になります。メインストリートからやや外れた位置にあるため、市民の認知度もあまり高くなかったと思われ、60代の豊橋市民すらも「豊橋に銀座なんてあったかのん?ホイ」と言うほど。ホイは言ってませんが。
 名前こそ仰々しいですが、国道で分断されていることもあって繁華街の一翼を担っていたとは言いづらく、市街東部地区住民の買い物先という位置付けだった、てなことを聞いています。そして現在は、三遠南信ではおそらくもっとも現役商店が少ない銀座でしょう。ある商店主に聞いたところ、4軒とかなんとか…。

160419-3.jpg

 そんなところが「銀座」とはよう言うた、という感じですが、なぜ銀座を名乗ったかと言えばズバリ、豊橋には他に銀座がなかったからです。先に挙げたローカル銀座4原則のひとつ「早い者勝ち」ですね(→●□)。
 豊橋銀座は来歴がはっきりしており、商店街組織の「豊橋銀座発展会」が発足した昭和23年9月16日に誕生しました。もとは、戦時中まで近隣に存在した劇場の名前から「松竹館通り」と呼ばれていたのですが、戦災復興の機運の中でドーン!と改称したのです。
 昭和29年にはネオン街路灯が設置され、開通式が行われています。また、昭和31年には映画館「銀座東映」が開業しています。

160419-6.jpg

 左の道を入ったところが銀座東映の跡地。新川交差点の北東、豊橋フロントビルの真裏になります。平成12年までやっていたようですが、僕が愛大生だった90年代前半には成人映画館になってました。

160419-8.jpg

 商店街の連合団体である「豊橋発展会連盟」が昭和55年に刊行した記念誌「三十年の歩み」に、刊行時に存在したたぶんほぼすべての商店街組織が掲載されているのですが、「銀座通り発展会」の項目には次のように書かれています。

この発展会は昭和32、33、35年の豊橋まつりに元禄風仮装に山車或は、大型トラックを繰り出しての参加の頃が最も充実した時期であった。
年1回の旅行、海水浴、大売出し、特価販売にと種々の催しも行い販促に智恵をしぼったものであるが、道路事情、大型店、スーパーの進出、駐車場問題等のため有力店舗外相次いで転出、数軒の専門店を残し奥様商売となってしまった。現在は対応策もなく、街路灯の維持管理と親睦を目的とした名だけの発展会である。

(原文ママ)

 うーむ、実に正直な記述である。ローカル銀座4原則のひとつ「短命」を見事に証明しています。
 興味深いのが、ここに書かれている 「街路灯の維持管理」が今も生きていることです。2008年には→●□だった街灯が、上の写真のようになんと新しくなっていたのには驚いた。
 商店街としては機能していなくても、街灯さえあればストリート名称が残る可能性もある、というわけです。

160419-7.jpg
参考資料。昭和31年9月28日付「豊橋新聞」より、銀座東映オープンの広告のコピー。クリックで拡大して、ストリート名称をお楽しみください。

160419-9.jpg(1996.01.22)
オマケ、銀座東映入口にあったアーチ。ポルノ映画館だったので外観はさすがに気が引けて撮っておらず…。ちなみに右下にみえる手描きカンバンの映画タイトルは「いけにえ個人授業」「制服半熟いじり」「剃毛教室脱がせて!!」。
(まさ)

160313-2.jpg
東三河雑 | Comments(2) | Trackback(0)

新城におけるストリート名称の件

2016年04月16日
 そう50号連動ネタの「ローカル銀座考」シリーズ。
 伊那街道に沿って東西に長い新城市街地のうち、銀座は新城駅近くの栄町になります。新城銀座の特徴は、一本のストリート名称ではなく、直角に交わる二本の大通りから構成されていること。なので「銀座通り」のようなストリート名称は適当ではなく、かつて存在したタウンアーチには「銀座街」と表記されていました(その写真は樹林舎刊「東三河今昔写真集」「豊川・蒲郡・新城・北設の昭和」などを図書館でご覧ください)。

160416-1.jpg

 核の一本は伊那街道。一部が蒲郡の防火帯のような店舗長屋ビルになっており、近所の商店主によるとかつてその中に「喫茶銀座」という店もあったそうな。

160416-2.jpg

 もう一本は新城駅(前)通り。
 二つの道筋が銀座である理由は、これらがひとつの商店街組織であるからです。伊那街道沿いと駅前通りはともにかつては商店数も多かったので別組織でもよさそうなものですが、駅前通りは明治31年の新城駅開業後に発展した新興地域であり、宿場町時代以来の町割りでいうと栄町の旧名「下町」に含まれます。おそらく、旧下町への帰属意識が強いゆえ分離しなかったのではないか。
 下町がいつから「栄町」と呼ばれるようになったかは突きとめられませんでしたが、想像するに、新城駅の開業により商業地化したので、旧来の中心部である「本町」へのカウンターとして「栄町」の名が起こり、戦後、本町やもうひとつの商業地である「東新町」にさらに差をつけるべく「銀座」と名付けたと思われます。
 ただ、銀座の名はどうやら短命だったか定着しなかったようです。現在50前後の商店主に聞いたところ、もう一世代前の人たちが名付けたもので、自分たちの世代では銀座の印象がないとのこと。
 ちなみに昭和50年発行の市勢要覧に商店街が写真入りで掲載されていますが、これには「栄町商店街」のキャプションが付いているだけで銀座の表記はありません。また、昭和44年発行の「新城市商工名鑑」に載っている広告で、所在地を「銀座」としている店舗もありません。

160416-3.jpg

 栄町に連なる「中町」も、もとは下町でした。大正13年発行の郷土誌には中町も栄町もなく「下町」だけです。いくつかの資料を検討したところ、どうも中町は栄町のカウンターとして発生したっぽい
 中町には両側に広い歩道があり、栄町と商店街組織が異なることが一目瞭然です。たぶん栄町に対抗して整備したのでしょう。

160416-4.jpg

 栄町は広い歩道がないかわりに、店舗長屋ビルの下にスペースが設けられ「プチアーケード」状になっています。どうでもいいけど、この古びたビニールテントの配色、こちらの商店街とほぼ同じ(→●□)。

160416-5.jpg※クリックで拡大します

(まさ)

160313-2.jpg
東三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)

蒲郡におけるストリート名称の件

2016年04月14日
 まだまだ続く、そう50号連動ネタの「ローカル銀座考」シリーズ。ここから東三河編で、まずは蒲郡。
 蒲郡の銀座は、過去にも少し触れた本町銀座(→●□)です。

160413-1.jpg

 アーケードが撤去されてはや五年、あれから何軒かが閉店しています。アーケードのあった頃は「ぎんざ」のフラッグが通りに吊り下げられていましたが、最近は商店街名称も前面に押し出していないみたいだし。
 ここが銀座を称するようになったのは、いくつかの資料を検討したところ、どうやら昭和30年に「防火帯」と呼ばれる長屋ビルが完成したときのようです。それ以前は単に「本町通り」だったらしい。

160413-2.jpg

 防火帯とは、こういう建築物のこと。万が一、町が大火に襲われたとき、このようなコンクリート建築が「壁」となって延焼を防ぐというものです。実際に壁になりうるかどうかは疑問ですが、仮に役割を果たすハメになったら住んでいる人もたまらないでしょう…。
 蒲郡にはここのほか、蒲郡駅北口(広小路)と三谷に防火帯があります。当時は最先端だったのでしょうが、さすがに半世紀を超えるといずれも文化財的な風情が出てまいりました。
 この銀座がどこのカウンターかというと、駅前界隈に対してのものでしょう。「本町」の名が示す通りもともとこのあたりが蒲郡の中心だったのが、東海道本線の開通以降駅周辺が発展して「町の顔」の地位を奪われたため、いちはやく防火帯を建設したついでに銀座を名乗って気勢を揚げたんじゃないかと。
 蒲郡市街地は構造がシンプルなので、ストリート名称も割とわかりやすい。

160413-3.jpg

 蒲郡駅から銀座までまっすぐ伸びる駅前通り。かつての呼称は「駅前本通」。

160413-4.jpg

 蒲郡駅北口、線路と並行する「市役所通り」のうち、防火帯ビルのあたりは通称「広小路」。これは昭和33年の完成。

160413-5.jpg

 駅前通りの西を南北に貫くのは「中央通り」。なお、現行の商店街組織としては銀座通り・駅前・中央通りの三つにわかれています。
 あと、蒲郡にはもうひとつ、蒲郡駅南口の海岸銀座(→●□)がありました。ここはごく近年の区画整理事業で一掃され、往時の街路は消滅しています。
 海岸銀座は映画館と歓楽街から成り、商店街というより遊興地だったようです。古くは「楽天地」という名称でしたが、昭和37年に街路灯が竣工したのを機に「海岸銀座」を名乗ったと思われます(突っ込んで調べていないので、詳しいことを御存知の方がおられましたらご教示ください)。

160413-8.jpg※クリックで拡大します
(まさ)
東三河雑 | Comments(2) | Trackback(0)

恋のアーケード0036

2016年04月13日
 話は岡崎市街に戻りますが、岡崎の中心市街地には唯一、本町三丁目に歩道アーケードが残っており、いい味わいになっております。

160412-1.jpg

 昔はここに限らず銀座、東康生、伝馬1、明大寺など道幅の広い主だった商店街にはほとんどアーケードが連なっていたそうで、さぞや壮観だったことでしょう。
 新編岡崎市史によると、岡崎の近代的アーケードは昭和27年に街路テントを設置した銀座が嚆矢で、それに刺激を受けた東康生が翌28年に鉄製アーケードを設置し、以後アーケードがバンバンできたとのこと。この本町三丁目は昭和31年に設置され、どうやらその当時の設備が今も使われているらしい。だとしたら登録文化財レベルではないか?

160412-5.jpg

 角部分の美しさたるや、悶絶級である。
 あと岡崎のアーケードといえばもうひとつ、昔は花街で戦後「松応寺盛り場商店街」を名乗った松本町の松応寺門前に有名物件があります。

160412-2.jpg

 木造!悶絶!
(まさ)

-------------------------------
◎マルカドブックス
告知洩れも含めて8冊更新しました。

0216 偽りの楽園(トム・ロブ・スミス)→●□
0217 私家版 差別語辞典(上原善広)→●□
0218 罪悪(フェルディナント・フォン・シーラッハ)→●□
0219 感じる言葉 オノマトペ(小野正弘)→●□
0220 日本売春史(小谷野敦)→●□
0221 奇妙なアメリカ 神と正義のミュージアム(矢口祐人)→●□
0222 d design travel GIFU(D&DEPARTMENT PROJECT)→●□
番外 古地図で楽しむ三河(松岡敬二編)→●□
西三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)

さらば福岡線

2016年04月12日
 3月末で廃線跡転用の名鉄バス福岡線が廃止になるというので、先月下旬に何回か沿線を徘徊してみました。

160411-7.jpg

 昭和37年に廃止された名鉄福岡線(岡崎駅前-福岡町)の路盤をバス専用道にしたマニアックな路線です。世間的にはマイナーですが一部好事家には名が知られており、中日新聞にも記事が載っていたためか、最後の日曜や最終日にはマニアや親子連れがたくさん来ておりました。

160411-1.jpg

 その親子の一組がウチである。2キロちょっとしかないのでやや乗り足りないようではありましたが、4歳児もそれなりに堪能しておられた。

160411-8.jpg

 久々にめぐって驚いたのは西若松の変貌っぷり。たしか昔は停留所の周囲は田んぼでかなりの田舎風情が漂っていたと思ったのだが、20数年も経つと住宅がバンバン建っており、今も宅地化が進行中。

160411-3.jpg
(1992.05.06)

 20数年前は鉄道時代からのものと思われる木造の待合所が残っておりました。右に見える桜の木は、廃止の数週間前に伐採されたと中日の西三河版に載っていました。

160411-4.jpg
(1992.05.06)

 中には駅名標の残骸も。
 岡崎駅前の区画整理はほぼ完了したし、福岡線の廃止とともに岡崎南部の昭和が完全に終焉を迎えたような感じです。
(まさ)
西三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)

岡崎におけるストリート名称の件

2016年04月10日
 そう50号連動ネタの「ローカル銀座考」シリーズ。
 岡崎の銀座は、市街中心部を南北に貫く「本町通り」の商店街組織名です。今では誰も銀座とは呼びませんが、「岡崎銀座商店街振興組合」という組織名は残っています。範囲は「康生北交差点」から「本町三丁目交差点」までで、まさしく岡崎のど真ん中のイメージ。こんな界隈がどこのカウンターとして銀座を採用したのかというと、おそらく東康生が歴史的にも規模的にも岡崎ナンバーワンの商業地だったので、ここへの対抗心からでしょう。

160409-5.jpg

 銀座と呼ばれるようになったのは、『新編岡崎市史』に「本町銀座発展会が昭和25年に発足」という記述があるので、そのときと思われます。銀座と呼ばれなくなったのがいつ頃なのかわかりませんが、40歳前後の岡崎市民の知人が「ここが銀座と呼ばれていた記憶はない」と言っていたので、昭和50年頃にはもう呼称としては忘れ去られていたようです。

160409-2.jpg

 岡崎銀座の東側。

160409-3.jpg

 岡崎銀座の西側。
 岡崎の戦後商業史は『新編岡崎市史』にかなり詳しく書かれています。闇市から公設市場、商店街イベント、アーケード設置、百貨店の登場まで網羅されており、三河の市町村史における商業関係の記述では随一の読み応え。
 ここには昭和20~30年代にボコボコ生まれた商店街組織の名称が数多く記されており、その乱立っぷりから終戦直後のカオスが伺えます。以下列挙してみると…

明大寺通り(東岡崎駅~市電通り)の露天街/中央マーケット(八幡町疎開道路)/松応寺盛り場商店街(松応寺境内)/岡崎セントラルアーケード(S27に新天地に改称)/国際チェーンストア―/タナケンバザー/徳王稲荷境内仲商会(両町)/明大寺マーケット/明大寺バザー/太陽マーケット(伝馬町)/円頓寺商店街/伝馬町三丁目発展会/伝馬町発展会/東宝通発展会/康生一番街/東連尺発展会/中連尺発展会/本町発展会/能見発展会(S27に北・中・南に分離)/伝両発展会/中町五丁目発展会/籠田発展会/タツキ橋通発展会(田町)/伝馬銀座発展会…

 なんだ「伝馬銀座」って!
 他の資料を探したところ、1~5丁目からなる伝馬通は各丁目ごとに発展会を組織していた時代があり、どこかの組織がほんの一時期だけ名乗っていたものと思われますが、まあ、あまり深く追及しても意味がなさそうだし、ここはしれっとスルーということで…。
 以下オマケ。先日廃業したわたくしの古巣であるK出版社の先輩編集者が1989年に撮影したものです。

160410-2.jpg

 康生北交差点より本町通りを望む。シビコのカンバンが古い。

160410-4.jpg

 国道1号康生通南交差点歩道橋から本町方面を望む。奥に見える「びさん佛壇店」のカンバンは健在。なお、康生北交差点より南は「康生一番街」「殿橋通り」という商店街組織になっていたようで、街灯にストリート名称が見られます。

160410-5.jpg

 上の写真の部分拡大。

160410-3.jpg

 西康生通り。2010年に閉店した松坂屋岡崎店/クレオ(→●□)の前名「レオ」のカンバンが見えます。
(まさ)

160313-2.jpg
西三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)

昭和の駅前広場のスタンダード

2016年04月03日
 トヨタ銀座を歩いたついでに愛環三河豊田駅も見物しました。近くはたまに通るけれど駅にいくのは20数年ぶり。

160403-1.jpg

 昔は特に何とも思いませんでしたが、時を経て、国鉄の臭いが立ちのぼってきており、なかなか味わい深いのではないでしょうか。この味わいが分かるようになれば立派なマニアと言えましょう。

160403-5.jpg

 どのあたりが味わい深いかというと、特にこのあたりである。一般の方にはわかりにくいと思います。

160403-2.jpg

 工場を借景にした駅前広場は、立派に育った木々がそびえ、歩道があり、石組みの噴水は枯れ、希望とイノセンス感にあふれる銅像が建ち、駅と一体となり見事な昭和空間を作り上げております。このゆとりとこの風情は、愛知県の駅で随一ではなかろうか。

160403-6.jpg

 希望にあふれる銅像、題して「未来」。全裸の男女による無届の路上パフォーマンスを表現したものという(テキトー)。

160403-3.jpg

 イノセンス感あふれる銅像、題して「無心」。中学校陸上部のシゴキのワンシーンにしか見えないのである。
 都市の屋外景観においてこの類の銅像ほど意味がよく分からないものはないと常々思っていますが、置かれた昭和の当時、どういう経路で発注され、どういう感覚でモチーフが選ばれ、そして置かれた時の市民の反応はどうだったのか知りたいぞ。しかるべき研究者が「市街地の銅像・モニュメント史」をまとめてくれないものか。
(まさ)
西三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)

カー銀座

2016年04月01日
 そう50号連動ネタの「ローカル銀座考」シリーズ。
 本誌発刊後、当ブログでまとめるために収集資料を読み返していたら、うっかりして豊田市内にもうひとつ銀座が存在したことを見落としていました。それは「トヨタ銀座」。
 原発密集地の福井県若狭地方を「原発銀座」というように、トヨタの工場が集中する市域南部のことをこう呼んだ…ということではなく、現愛知環状鉄道三河豊田駅の南にある「みゆき商店街」を昔はこう呼んだとのこと。つい先日廃業した郷土出版社(わたくしの古巣)が1994年に刊行した「図説豊田加茂の歴史」下巻で、昭和の大合併の経緯を解説した項の中で参考図版として「トヨタ銀座」のタウンアーチの写真が掲載されています。

160401-2.jpg

 三河豊田駅前のロータリーの一角から南へチョロっと伸びているこの道が、どうやらトヨタ銀座のメインストリートだったようです。店は少ないけれど雰囲気が残ってて好もしい。「トヨタ屋食堂」なんてそそる名前の店も現役です。
 この商店街の所在地は旧碧海郡高岡町になります。『高岡町誌』によるとこのあたりは大林の一部で「広漠とした山林原野」だったそうな。トヨタ工場の建設開始が始まったのは昭和10年頃からで、それに伴って宅地開発もスタート。昭和12年に三河鉄道岡崎線が三河豊田駅を開設するころには、親村の大林から駅・工場にいたる幅4間(約7m)の高岡村道ができました。旧銀座のこの道は村道の名残と思われます。
 このあたりの地名は高岡村大林字笹原でしたが、人口増加に伴って昭和17年に笹原単体の集落として独立。戦後、商店街組織「笹原商工会」が結成され、それがのちに「笹原発展会」、さらに「トヨタ銀座発展会」と改称されました。みゆき商店街のHPによると銀座になったのは昭和32年。

160401-5.jpg
高岡中学校の向かいに残る旧役場の門柱

 碧海郡高岡村は昭和31年の町制施行を経て、昭和40年に豊田市に合併。次いで昭和43年に旧高岡町域で町名整理が行われると、笹原のあたりはなぜか「御幸本町」に改称されました。御幸と言うからには天皇行幸が由来と考えるのが普通ですが、そういう話は手持ちの資料のどこにも載っておらず、謎です。由来を知っている人がいたらぜひご教示ください。
 で、町名に変更に伴って商店街組織も「御幸本町発展会」になりました。すなわち、トヨタ銀座が存在したのはわずか11年ということになります。発展会は平成6年に「みゆき振興組合」に改称し、現在に至っています。
 これがどこのカウンターかというと、挙母の銀座のカウンターということになる…のかな?「あっちは市街地だけど挙母じゃん。お膝元のウチこそトヨタと名乗るべきっしょ?」てな感じで。

160401-3.jpg

 ちなみに同じ三河豊田駅前でも北の旧挙母町域では「山之手発展会」という別組織になっています。山之手なんて一見安易な地名に思えますが、出現したのは昭和26年頃と意外に古い。親村の樹木(上挙母駅一帯)から見て山之手という意味か?
(まさ)

160313-2.jpg
西三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)
 | HOME |