タウンサインの研究0066

2016年03月29日
 前回の続きで挙母。
 銀座通りともに中心商店街の一翼を担っていた旧中町=現桜町の現況がこちら。

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 中町が桜町になったのは、昭和34年に挙母市が豊田市に改称した際に豊田市全域で行われた町名整理のときです。江戸時代初期の「桜城」(挙母城の前身。近くに隅櫓の石垣が残る)が由来でしょう。別に中町でも問題なさそうだが、豊田市になったことだし心機一転、パーッとご陽気にまいりましょう~!ってな感じか。
 桜町のうち「桜町本通り商店街」になっているのは東半分で、松平への旧街道筋になり、かつ挙母神社の門前町でもあります。ここには昭和35年から昭和60年まで全覆型アーケードがありました。

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 ストリート写真はパッとしないふうに見えてしましますが、フラッグやサインはしっかりしており、商店街活動もけっこう活発ぽい。道幅も適度で、割と昔の商店街の名残を留めていると言えましょう。

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 対して名古屋への街道筋にあたる西側(桜町1丁目)は、今では商店街の体を成していません。街灯には「西桜町」のプレートが取り付けられており、「ウチと桜町本通りは別ストリート」と宣言しています。
 駅前通り(喜多町)と桜町の間にある神明町も古くは商店密集地だったようなのですが、こちらも昔日の痕跡をまるで留めていません。

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 市名改称時の町名整理では、中町のほかに北町もご陽気な感じで「喜多町」に改称しました。このうち、竹生町に接続する飯田街道沿いの喜多町三丁目は、今では「ひまわり通り商店街」という名称になっています(ひまわりは市の花)。なんというか、ノー天気な感じで嫌いじゃない。

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 でもって駅前通りでは北側の再開発が進行中(直前の様子はこちら→●□)。
 豊田市街は、昭和の終わりから今に至るまで延々とスクラップアンドビルドを続けている印象があります。いったいいつになったら風景が落ち着くのだろうか。
(まさ)
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挙母におけるストリート名称の件

2016年03月27日
 そう50号連動ネタの「ローカル銀座考」シリーズ、第二弾は豊田市中心部の銀座。
 そもそも挙母は、名古屋・足助(経由飯田)・瀬戸・知立・岡崎・松平下山(経由東三河)・藤岡小原(経由東濃)の7方面の街道が交わる交通の要衝で、旧街道筋が軸となって市街地が形成されました。核のストリートは東西の「中町通り(現桜町)」と南北の「竹生通り」で、これに大正~昭和初期に発展した「挙母駅前通り」や「昭和通り」が加わって、碁盤目状の町並みが形成されます。
 地元の商店主に聞いたところ、挙母の銀座は南北のストリートの南側で、駅前通りと交わる「喜多町3丁目交差点」から2ブロック南の「桜町1丁目交差点」までの両側だったようです。

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 いちおう商店は連なっているものの、街路が広いせいでいささか散漫な印象は否めません。昭和50年頃までは道幅が狭く店もギュウギュウに連なり、銀座の名に違わぬ賑わいっぷりだったとか。挙母市時代の市勢要覧や商工案内のグラビアには、繁華街の代表として銀座通りが必ず大きく掲載されているほどです。
 現在は「一番街」に改称されています(改称時期は未確認)。この名は、かつてのナンバーワン商店街「銀座」の自負によるものでしょう…か?

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 挙母銀座の名が正式に登場したのは、昭和24年と思われます。
 「豊田市史 現代編」によると、戦後の商店街組織の嚆矢は昭和22年発足の「竹生商栄会」です。この会では、視察先の岐阜・柳ヶ瀬の街灯に倣い、翌年には通りに100ワットの裸電球を設置。戦後間もない頃の暗い町を明るく照らし出し好評を博しました。この竹生商栄会の積極策に刺激を受けた他の街区、中町(現桜町)、北町(現喜多町)、西町、若宮、昭和町、銀座、本町でも、昭和24年に商店街組織が発足します。これより以前に銀座の名が出てくる資料が見当たらなかったので、おそらくこのときではないかと(※註)。
 ということで、ローカル銀座四原則のひとつ「銀座はカウンターである」に照らすと、挙母銀座は戦後の商業振興の先鞭をつけた竹生町のカウンターということになります。

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「そうでやんすか…」(銀座の眼鏡屋さん)

※註
昭和10年発行の「花街競艶録」という冊子(豊田市郷土資料館編「挙母資料にみる明治大正昭和のあゆみ資料集」に収録)に当時の挙母市街の店の広告が多数載っており、驛通り(驛前通り)、昭和町(昭和町通り)、中町、北町、神明(神明本通り)、西町、竹生(竹生本通り)の名が確認できます 。

160327-9.jpgクリックで拡大します

 例によって挙母のストリート名称マップを自作してみましたが、現行商店街の範囲がいささか複雑で解明しきれず、誤認箇所もあると思いますので、地元の方にご指摘いただけますと幸いです。

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参考資料1。銀座が載っている市勢要覧や商工案内(のコピー)。 

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参考資料2。昭和29年の挙母市商工名鑑に載っている広告の地図(のコピー)。このあたりの資料、気になる方は豊田市中央図書館で探してみてくださいませ。

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愛チョウBOX

2016年03月24日
 その足助市街を徘徊していたところ、足助町道路元標の向かい側でこのようなブツを発見。

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 こんなところに鳥の巣箱が!?と思ってよく見ると、足助町商工会が設置した「ご意見箱」であった。これは珍品。公共施設の窓口ならいざ知らず、市街地の屋外にこういうものが置かれているのは見たことがない。さすが大正時代から観光開発を行っている先進地です。

160323-4.jpg(2008.06.14撮影)

 観光先進地の商工会といえば、以前町の中で発見して出し忘れていたネタを思い出した。飯田街道の裏道にある民家の玄関に飾ってある蹄鉄。
 中馬の中継地ならではの魔除け風習的なモノか?と思ってよく見ると、上のほうに「足助の町並を守る会」と記されています。これは昭和50年に商工会有志で発足させた団体で、どうやら蹄鉄プレートが会員章だったらしい。逸品!売って!

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 あとオマケ、二輪屋に残るステッカー。CMソングは「♪ら~ん、さ~きました~」。足助の奥地ではいまだに走っていそうだ。
(まさ)
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足助におけるストリート名称の件

2016年03月21日
 そう50号連動ネタということで「ローカル銀座考」、今回から各銀座編。まずは当記事でメイン写真に使われた足助から行ってみましょう。実は足助の町の構造は、ローカル銀座を考察するのにもっとも適した好モデルなのでです。
 足助市街地はおおよそ、旧飯田街道沿いに連なる宮町-西町-新町‐本町‐田町‐新田町から成っています。マピオンで拡大するとよくわかりますが、それぞれの町は小字にほぼ相当しているので、境界がたいへんわかりやすい(字石橋が新田町、字宮平・宮ノ後が宮町)。ストリート名称と現行地名が一致しない例が多いなか、安易な町名変更をせずわかりやすさを維持してきた足助には、地名マニアとして賞賛せずにはいられません。

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 足助の銀座は、田町になります。宿場町の中心部に枡形があり、その東側の町並が田町。風情を伝える建物が何棟も残り、商店もけっこうあって頑張っている印象です。
 現在は、対外的に銀座商店街の名称を打ち出してはいないようです。しかし地元では今でも銀座でけっこう通用する感じで、商店の組織名にも「足助銀座商業協同組合」と名を残しています。他のストリートには「新田町商店街事業協同組合」「本町発展会」「新町発展会」「西町発展会」があり、全域の統括的な組織として「足助中央商店街事業協同組合」というのが存在する模様。
 銀座の名前がいつ使われるようになったのかはよくわかりませんでしたが、戦前の資料には見つけられなかったので、戦後と思われます。おそらく組合発足と同タイミングではないでしょうか(確証はないのでご存知の方はぜひご一報ください)。そして、銀座にした理由は本町へのカウンターでしょう。「田んぼの田じゃイナカくさいし、いっそ派手な名前にしよまいか」という程度の理由かな、と…。

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 銀座の西入口には足助町道路元標が建っています。旧東加茂郡役所の入口にして、町のちょうど真ん中という絶妙の位置。

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 ところで、足助で面白いのは銀座の存在よりも、銀座の田町へのカウンターとして新田町があることでしょう。ここは明治になって新道開削により市街地が拡大してできた町とのこと。新銀座や東銀座ではなく、あえて田町の「新」というところが潔い…か?

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 ここは今でも「新田町商店街」を謳っているようです。 

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※クリックで拡大します

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ノーギンザ、ノーライフ

2016年03月16日
 前回の続きで「そう50号」連動ネタ。

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(飯田市銀座四丁目の廃ホテル)

 すべてのローカル銀座は本家の繁栄にあやかって名付けられたものですが、では、その町でなぜその場所が銀座を名乗ったのか。三遠南信の事例を検討したところ、一つの答えが導き出されました。第三の結論、それはズバリ「銀座は早いもの勝ち」。
 その地域で一番の商店街だから自然に銀座と呼ばれるようになったというわけでは決してなく、その地域で他に銀座を名乗っているところがなかったので「ならばウチで」というパターンがほとんどのようなのです。
 ここで大事なのは、銀座がある町にはほぼ例外なく、銀座以外のストリート名もあるということです。街区が複雑で、それぞれに商店街組織がある場合、銀座の名が発生しやすいと言えます。

160316-5.jpg(蒲郡本町銀座)

 たとえばそこそこ大きい町で銀座がない例を挙げると、東栄町本郷がそうです。ここの場合、多くの商店が連なるストリートは「万場通り」一本のみ。大千瀬川の対岸の近接地に「市場通り」もありますが、こちらはもともと旧下川村であり、万場通りのある旧本郷町とは自治体が違っていました。旧武節村と旧稲橋村で一体化している稲武もこれと同じ。
 設楽町田口の場合は(→●□)、細かく分けると本町・栄町・太田口ですが、外見上は一本の長い町であり全部まとめて一つの大きな商店街という感じなので、わざわざ一部分を切り取って銀座と名付ける必要もなかったのでしょう。旧東海道沿いの舞阪も同様で、西町・仲町・新町に分かれていますが実質的に一つの商店街という風情です。

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(本郷・万場通り)

 街区が複雑なのに銀座がない例だと豊川や西尾がそうです。これらに銀座がない理由はよくわかりません。まあ、必ずしも銀座が存在する必要はないのですが。
 推測するに、豊川の場合は観光要素が強い「門前町」なので銀座を打ち出す必要がなかったから?西尾の場合は、本町・横町・肴町・中町などの勢力が拮抗し「後付けの銀座なぞ不要!」というほど各町のプライドが高かったから?

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(豊川門前通商店街)

 では、銀座がある町の場合、その地位はどうなのか。銀座の規模はさまざまながら、それぞれの歴史を調べるとパターンがあることに気が付きました。おおまかに下記の三つに分類されます。

1、もともとその町ではランク下位だったエリアが、銀座の名をドカーンと打ち上げて既存のメインストリートに対抗した場合。
2、明治大正くらいまでは格上の町だったのに、新興商店街に押されて地位が下がってしまったため、それに対抗して銀座を名乗って勢力回復を計ろうとした場合。
3、新興商店街がその勢いに乗って銀座を冠し、従来勢力にダメ押しで差をつけようとした場合。

 ここで第四にして最重要な結論が導き出されました。すなわち「銀座はカウンターである」。おっと、これまたなんかカッコいいぞ。
 そんなわけで、マニア地域学の新基準ともいえるローカル銀座4原則「存在しない町もある」「多くは短命」「早い者勝ち」「カウンター」が出揃いました…って、大仰に言うほど大した発見でもないですが。次回からは各銀座を見てゆくくことにしましょう。
(まさ)

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ローカル銀座考序説

2016年03月14日
 春夏秋冬叢書「そう50号」が発売中です。

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 今回のキーワードは「座」ということで、毎回やってる地名探訪のコーナーではかねてから調査してみたかった「銀座」を取り上げました。当ブログでもちょくちょく書いてますが、その完全版を目指したわけです。
 ローカル銀座ネタなんてすでに誰かがやってそうなもんですが、研究論文、レポート、資料などは意外にないようで、とりあえず紙媒体で三遠南信の銀座調査&銀座論をやったのは史上初ではないかと自負します。と言いつつ誰かやってたらスイマセン。
 ここで取り上げるローカル銀座というのは、本家である東京の銀座(→●□)にあやかって命名された地方商店街の銀座のことです。ローカル銀座と聞くと、おそらく多くの人が「昔は繁華街、今はシャッター街」というようなイメージを漠然と抱くのではないでしょうか。その正否はさておきまして、とりあえず「本誌エリアに銀座はいくつある(あった)のか?」を解明してみました。
(※なお本誌エリアは、東三河全市町、西三河のうち岡崎市・豊田市・西尾市・幸田町、遠州のうち浜松市・湖西市、南信のうち飯田市・下伊那郡になります)

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 答えが知りたい人は本誌を買ってね…と言いたいところですが、当ブログで各銀座の分析をしようと思っているのでネタバレ承知で書いておきますと、わたくし独自の調査により文献資料、地元住民の証言等から確認できたのは、以下の14銀座でした。

【西三河】
岡崎銀座、挙母銀座、トヨタ銀座(高岡)、足助銀座、一色銀座
【東三河】
豊橋銀座(→●□)、蒲郡本町銀座(→●□)、蒲郡海岸銀座(→●□)、新城銀座、小坂井銀座
【西遠州】
砂山銀座サザンクロス(→●□)、二俣西町銀座、雄踏銀座
【南信州】
飯田銀座(→●□

※註1:本誌では「12銀座」と書きましたが、締め切り後にこちらのサイトを拝見して三河一色にも銀座があることに気が付き、この一覧で加えました。僕がチェックした時点ではかつて「銀座」だった街灯表記が「上中町」となっていたため(→●□)、うっかりスルーしてしまったものです。
※註1-2:さらに追加で、愛環三河豊田駅近くの「みゆき商店街」(旧碧海郡高岡町)がかつて10年ほど「トヨタ銀座」を名乗っていたことに気が付きました。(3/23追記)
※註2:これ以外に西三河の幸田町に「幸田駅前銀座」がありますが、近年の区画整理事業に伴い整備された新興商業地の愛称であり、本稿で扱う銀座とは性格が異なるため除外しています。

 もしかしたら他にも「一時期だけ名乗った」とか「地元民のみに通じる愛称」といった知られざる銀座があるかもしれません。もし御存知でしたら情報をお寄せください。
 正直なところ、調べる前はもう少しあるんじゃないかと思っていました。三河にはけっこうありますが、西遠州がちょっと少ない気がします。しかし主だった市街地を調べてみると、例えば気賀(北区)に「中央商店街(上町)・清水通り・落合通り・旭通り」、鷲津(湖西市)に「横須賀通り」などのストリート名称が見られるものの、銀座はどうも存在しなかったようです。
 すなわち、町がそれなりに大きいからと言ってかならずしも銀座があるわけではない、というのが調査から最初に得られた結論です。

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 というか「そもそも銀座は地名なのか?」という疑問もあります。
 銀座の名は通常「銀座通り」というストリート名称で表出し、住民や商店街利用者に浸透してゆきます。そのストリート名称はどこから出てきたかというと、ほとんどが商店街の組織名です。三遠南信では唯一、飯田の銀座が戦前に誕生し、あとは戦後復興とともに商店街組織の活動が活発化する昭和20~30年代に命名されているようです。
 ところが商店街が衰退し、それに伴って商店街組織も縮小・統廃合などすると、自動的にストリート名称も「風化」していきました。上記の銀座を見ると、歴史のある飯田銀座は正式な地名(飯田市銀座一~五丁目)として固定化しており別格としまして、組織名として銀座の名が生きているところも幾つかはあるものの、ストリート名称として生きており、広く浸透している銀座はほぼないと言ってもいいくらいです。名前を聞いてどこのことかすぐ分かるのは、もはや地元の高齢者ぐらいではないでしょうか。
 町の歴史を長いスパンで見たとき、その場所が銀座という名で呼ばれたのはごくわずかの期間にすぎません。つまり銀座は、地域商業の消長の中で突如現れいつしか消えていった、一陣の風のようなもの。一時期でもそう呼ばれたのなら地名と言うべきなのかもしれませんが、あまりにも脆弱です。
 調査の結論その二、いわば銀座は風である。おっと、なんかカッコいいぞ。現状はいずこも地味だけど…。

 そんなわけで次からの当ブログは当分の間「三遠南信の銀座シリーズ」が続きます。
(まさ)
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高台からの出航~後編

2016年03月11日
 前回の続き。
 「知多半島南部の展望スポットを網羅する」ということで、南知多町豊浜の高台にある「貝がら公園」にも行ってみました。B級スポット物件としてマニアには有名な私設公園ですね。昭和30年代から50年代にかけて、ある地元方が、個人で山上を造成して園地を整備し、園内のあらゆる建造物に貝殻を貼りまくって完成させた…とかなんとか。
 半島でも突出した特異さでどう扱ったものか考えあぐね、今まで気になりながらも足を踏み入れていなかったのですが、山の下から見上げると展望台らしきものも見えることだし、網羅と銘打つからにはいちおう確認しておいた方がいいかな…と。
 登ってみたら、聞きしに勝る奇怪さでぶったまげた。

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 山上に白山権現が祀られており、来園者はまず社にお参りする形に。
 そして以下、どんな言葉を使っても的確に表現できないような貝がらワールドが!

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 おお!

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 おおお!

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 ドカーン!

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 大砲が向けられている先は、伊良湖岬である。
 で、肝心の展望台がこれまた凄すぎて、思わずのけぞった。

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 山の下からは櫓しか見えなかったのだが、なんと船なのであった。その名も「白山丸」。いやー、さすが半島最大の漁師町!これぞ豊浜のランドマーク。先の内海展望台はこれを手本にしたのではなかろうか。
 なお、傍から見てもかなり老朽化しているので、登るのは危険と思います。

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 あと驚いたのは、園内のあらゆる柱的なものに、協賛者というべきか寄進者というべきかわからないけれどスポンサーと思しき夥しい数の企業、団体、商店、個人名が記されていたこと。もちろん貝がらで。
 当時、南知多にはこれといった観光施設がなかったので、かなり広く支持を集めたのでしょう…か?
(まさ)
知多雑 | Comments(0) | Trackback(0)

高台からの出航~前編

2016年03月08日
 ローカル媒体で「知多半島南部の展望スポットを網羅する」というような企画をやりまして、3年ぶりに内海展望台へ行ってみました。観光パンフレット等で紹介されるような施設ではないので地元住民以外で知っている人はほとんどいないと思いますが、内海市街地の東の外れ、知多四国45番泉蔵院の真上にあります(→MAP)。

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 ここは昭和44年に建造された構造物が特徴的。寺の隣接地だからなのか、御堂か鐘つき堂みたいな形をしております。

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 そして、櫓の下部は船。内海だけに千石船のつもりなのだろうか。

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 ただし、あまり高所ではないのでこのように眺望は大したことはありません。内海の全貌を見渡すのであればここのすぐ北にある高宮神社のほうがいいです。
 なぜこんなところに展望台が作られたのかというと、戦前の内海名所絵はがきにこのあたりから撮影された千鳥ヶ浜の写真があり、おそらく昔は千鳥ヶ浜の眺望スポットとしてそこそこ知られていたからと思われます。

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 オマケ。この展望台の裏に、桑山隆光という陶彫家が昭和17年に作った陶製観音像が祀られています。
(まさ)

◎展望台のある知多半島の中堅公園シリーズ
大府市・桃山公園→●□
東海市・大池公園→●□
半田市・雁宿公園→●□
半田市・乙川白山公園→●□
知多市・大草城址→●□
常滑市・大野城址→●□
美浜町・時志観音白山公園→●□
南知多町・羽豆岬→●□●□
半田市・半田緑地公園→●□
常滑市・小脇公園→●□
知多雑 | Comments(0) | Trackback(0)

緊急HINOMI速報

2016年03月02日
 昨日、東浦町藤江の国道247号沿いに立つ火の見櫓の前を通りかかったところ、脚元になにやら看板が。車を停めて見てみると、なんと火の見櫓の撤去告知で、愕然。しかも藤江だけでなく、緒川と森岡のHINOMIも!森岡と藤江が3/14or15、緒川が16とのことなので、未見のHINOMISTの皆さんはお急ぎください。

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 藤江のHINOMIである。未舗装の駐車場の一角に電話ボックスと並んで立ってているという、珍しい(?)ロケーションでした。

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 緒川のHINOMIである。町の真ん中の交差点角という非常に目立つロケーションでした。

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 しかも刈谷の鉄工所の銘板つき。刈谷には火の見櫓が一基もないので、われわれ西三河サイドから見ても貴重だったのに…。この銘板、ぜひ刈谷市郷土資料館が引き取ってほしい。

160302-5.jpg(2012.09.30撮影)

 そして森岡のHINOMIである。今年はもう村木神社の祭礼(おまんと)の行列とセットでは拝めないのである。

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 3基まとめて撤去されるのに、なぜか生路のHINOMIが撤去されるという案内はなかったので、もう少し生き延びるのか?ちなみに東浦町内では、石浜が数年前に撤去済み。緒川新田も県道55号バイパス工事に伴い撤去されたようです。
(まさ)

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◎マルカドブックス
3冊更新しました。
0213本にだって雄と雌があります(小田雅久仁)→●□
0214青線 売春の記憶を刻む旅(八木澤高明)→●□
0215奇跡の村 地方は「人」で再生する(相川俊英)→●□
知多雑 | Comments(2) | Trackback(0)

サダやん

2016年03月01日
 先日、於大の方(家康の母)についてのライトな原稿を書くため、一時期の居住地であった阿久比町の坂部城址へ。

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 天文16年(1547)頃に嫁いだ二番目の夫、久松俊勝の居城で、阿久比町立図書館の隣接地になります。公園入口に立つこの標柱は昭和3年の御大典記念(昭和天皇の即位記念)に建立されたもので、公園の歴史もなかなか古い。
城マニアには遺構が認められて楽しいかもしれませんが、公園じたいは広場しかなく、素人目には面白味がまったくありません。しかし園内にいくつか記念碑があり、そのひとつに驚いた。

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 元NHKアナウンサー松平定知氏の来山記念碑だ!記念碑というか、記念植樹碑かもしれません。この方、久松氏の末裔だったのか。
 来町は平成3年らしいが、だとすると松平氏は当時47歳。その若さで記念碑に名前が刻まれるのはどういう気持なのだろうか。名家出身の著名人なので「よきにはからえ」という感じ?
 松平定知氏といえば、昭和最後の日の1月7日の夜、最後のNHK番組のナレーションを務めていたことを思い出します。確か昭和最後のコメントは「間もなく昭和が終わります」だったか。
 なぜそんなことを覚えているかというと、昭和から平成に代わる瞬間をカッコよく記録しようと、テレビの音声と電話の時報をラジカセで同時録音していたからなのでした。それを中高生時代にしこしこ作っていたエアチェック集(ラジオでかかる曲を60分テープに録音してオリジナルカセットを作るという、80年代の音楽好きティーンエイジャーの遊び)のオープニングに収録し、一人悦に入っていたものだった…。

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 オマケ。すぐ近くの洞雲院墓所にある於大の方の分髪墓。石の扉に徳川家の三つ葉葵紋とバッテンがあしらわれているのだが、勝敗表のようです。
(まさ)
知多雑 | Comments(0) | Trackback(0)
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