西口石モノ二題

2015年09月30日
 そんなわけで西口町を半日ほど徘徊していたところ(昨年10月の話)、特別支援学校の向かいでこのようなものを発見。

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 陸軍省所轄地を示す標石だ!西口が軍用地であったことを示す貴重な文化財です。

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 しかし、この標石が建っているところが妙。右にもう一基「陸軍」とだけ刻まれた小さい標石があり、左には松の木が植えらえている。その周りを生垣が囲んでいます。
 推察するに、西口にあった旧陸軍教育施設の跡地を戦後に公共用地として造成した際、地元の人が遺物を道路わきの畑の一角に移設し、後にメモリアルスポットとして整備したのではなかろうか。経緯を知っている方がいたらご一報ください。

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 陸軍標石の近くには地蔵堂がありました。
 お堂の左に見える小さい石は、昭和59年に建てられた建立50周年記念の幟立て。つまり、高師村が豊橋市に合併して西口町が発足した二年後の昭和9年にお地蔵さんが安置されたことになります。ということは、そのあたりから開拓が始まっていたということか。
 そう48号で取り上げるのであれば、昨日書いた地名の謎も含めて西口の歴史を詳しく調査取材するつもりだったのですが、没にしちゃったので中途半端にネタだけということで…。いずれヒマになったら調べようかと。
(まさ)
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東三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)

西エントランス

2015年09月29日
 春夏秋冬叢書の季刊誌「そう」48号連動ネタ、というかボツにしたネタ。
 毎回やってる地名探訪のコーナーでは、先に書いたように設楽町の田口を取り上げましたが、最初は豊橋市東部の西口町でできないかと考えておりました。
 西口は、かつて広大な荒地だった高師原の東端に位置しています。一帯は、戦前は陸軍の演習場となり、一隅に陸軍の教育施設が置かれてもいたのですが、戦後に払い下げられ、開拓と宅地開発が行われました。
 現在は特にどうということはない普通の住宅地で、主な施設には市営と県営の西口住宅、特別支援学校、福祉施設などがあります。愛大の学生時代、数日間だけですがここの福祉施設でバイトをしたことがあり、個人的に思い入れが…なくはない地域。
 西口のイメージというと、下の写真のようなところでしょうか。

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 うーむ、どうということはない。奥に見えるのは岩屋山。

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 わずかですが開拓地の名残りの畑も見られたり。
 この西口は、地名の由来が謎です。西口町じたいは、属していた渥美郡高師村が昭和7年に豊橋市に編入した際に成立しており、おそらく現存する小字の「西ノ口」から命名したんじゃないかと思われます。荒地なんぞにわざわざ町名を与えたのは、その後の都市計画を見越してのことでしょう…たぶん。ちなみに同時に、隣接する岩屋町も誕生しています。
 で、何が謎なのかというと、どこから見て「西」の入口なのかと。場所は高師村の東ではないか。岩屋山や二川宿から見ると西だけど、ちょっと距離があるし。

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 で、あとは団地ですね。「豊橋百科事典」によると、市営のほうは4階建てが昭和40年、5階建てが昭和43年の建設。県営のほうは昭和45年の建設とのこと(県営の一棟で定礎の銘板を見たら昭和55年の竣工だったが)。
 そしてこの団地にも、地名の謎があります。

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 それは、西口住宅を名乗っているのに、市営・県営住宅の敷地と福祉施設群の敷地が、西口町ではなく「高師町字北原」になっていること。Mapionも参照されたし。旧陸軍用地であることが関係しているとは思うが…。

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 でもって市営住宅の方は、自治会名が「西口二丁目」となっている!一丁目はないらしい。
 こことは関係ないけど西口といえば、豊橋駅西口のことを地元では「西駅」などと呼んでおり、昔から疑問です。なぜ?
(まさ)

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カンバンの手帖ブログ版0312

2015年09月26日
 カメラマンYさんとの飯田、中井侍取材の際、飯田の繁華街入口にある中央広場バス停をチェックしてみました。

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 所在地は、飯田駅前から伸びる「中央通り」を700mほど進んだところ。道路は国道151号で、写真奥の「中央交差点」から坂を下って松川河畔の新飯田橋郵便局まで、ストリート名は「東中央通り」となります。こうして連呼してみると、中央って意味、語感、字面いずれもどこか妙な感じがします。僕だけ?
 それはさておき、ここではバス停ポールとは別にもうひとつ、錆ついたバス停風のカンバンがあることに気が付きました。

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 何かと思えば、遠山郷の各所で冬に行われる湯立て神事「霜月祭り」の案内なのでした。上に停留所名(旧名の中央広場下)が入っているので、一瞬、臨時シャトルバスの乗り場と勘違いしてしまいますが、そんなバスが運行されたという話は聞いたことがない。
 フォントやロゴデザインからすると80年代後半のブツと推察されます。カンバンとしてはそんなに古い部類ではないのに、錆び方が凄まじい。
 なお、停留所名の「中央広場」は、バス停のやや北にある「中央公園」のことと思われます。谷に蓋をして造成した、ちょっと古びた風情の公園です。一ヵ月ほど前の夜に行ってみたら、シンボルの噴水がライトアップされててたまげた。

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 誰もいない公園で延々と続く、水と光のショー!シュールすぎる…。
(まさ)
伊那谷雑 | Comments(0) | Trackback(0)

資源としての秘境駅0007

2015年09月22日
 半田の矢勝川で彼岸花イベントが行われる季節になりました。先日、仕事の帰りに近くを通りかかったら南吉記念館付近でプチ渋滞が発生しておりましたが、こちらは渋滞など起こりえない彼岸花名所のネタ。
 先週、カメラマンYさんと飯田へ取材に行った帰路、長野県最南端の中井侍駅に立ち寄ってみました。Yさんによると、駅の周囲に彼岸花が咲き乱れているというので。
 背後が急傾斜地の中井侍駅に彼岸花の咲く余地があったっけ?と思ったら、その急傾斜地に彼岸花がドバっと咲いていて驚いた。

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 たまたま居合わせた地元の方によると、熱心な人が球根を植えて、開花に合わせて下草刈りもしたとのこと。電車でやって来て、下車していきなり彼岸花の群生が目に飛び込んで来たら、驚くこと必至だ。

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 天竜川側の斜面にも。不思議な光景である。
 それにしても中井侍へ季節モノの旬に来るのは初めて。茶や桜がよく知られているけど最盛期に行ったことがない。二十数年も飯田線チェックをしているというのに…。
(まさ)
伊那谷雑 | Comments(0) | Trackback(0)

ピュアピュア気賀リップス

2015年09月21日
 春夏秋冬叢書の季刊誌「そう」48号連動ネタ。
 今号は巻頭特集で「××口駅」がたくさん取り上げられております。三遠南信には赤岩口とか稲荷口とか西尾口とか、現役・廃止含めてたくさんの「××口駅」がある、ということを一年前の編集会議で話したら、なぜか特集としてネタが採用されました。ネタ出ししただけで記事は担当しておりません。
 この中で浜松のOさんが遠鉄奥山線の旧気賀口駅(昭和39年廃止)の記事を担当されており、現役当時の写真を遠鉄から借用して掲載されています。わたくし、奥山線の廃線跡は平成2年に歩いておりまして、先日90年代の遠鉄バス停を掲載した折にそのとき撮った駅跡の写真が出てきましたんで、比較していただけるようアップしておきます。

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(1990.11.15、以下3点同じ)

 気賀口駅は現在のハローワーク細江の場所にありました。撮影当時はハローワーク庁舎の建設前で、駅の用地が未舗装状態で残っておりました。って、廃止後26年の撮影なんて時期的に中途半端すぎて、特にどうということはないですね。

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 しかしこれはちょっと貴重なんではないかと思う。気賀口駅跡から奥山方面へすぐ、県道362号を越えたところに用水路があり、そこに架かっていたコンクリ橋の名称がなんと「軽便橋」。昭和60年11月完成と銘板に刻まれています。90年代後半だったか、この用水路は宅地造成で埋められてしまい、銘板もどこへ行ってしまったのか…。

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 この時は終点の奥山駅跡もチェック。未舗装の遠鉄バスの車庫になっており、民家風の乗務員休憩所がありました。現在もバス留置場になっていますが、さすがに舗装されています。
 立っている二人は大学のサークルの同級生。女子連れでいったいなにをやっておるのか。しかし今にして思うと、記録写真には邪魔だ…。

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 奥山線の前には、金指から井伊谷まで伸びていた住友セメント浜松工場専用線と、工場から白岩の鉱山まで伸びていた鉱石運搬線の廃線跡も探索しています。金指~井伊谷~奥山~竜ヶ岩洞~気賀と、一部バスに乗ったほかはほぼ歩いたのでした。若かった。
 写真は鉱山跡に続くトロッコの軌道敷跡。このあとチェックに行っていないので現況は不明。沿線でガーター橋も発見して写真を撮っていますが、もはやどこなのかわからない。

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 気賀口といえば先日、口が付かない気賀駅のほうへ十年ぶりくらいに行ってみたら、駅舎とホーム上屋が登録文化財になってて驚いた。こんなものが文化財として価値が認められるなんて、いやー、いい時代になったものだ。駅舎内に奥浜名湖観光協会が入居していますが、施設的には25年前とほぼ変化なし。
(まさ)

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遠州雑 | Comments(0) | Trackback(0)

裏口への道

2015年09月20日
 春夏秋冬叢書の季刊誌「そう」48号連動ネタ。
 三遠南信の特産品が他の地域でどのように扱われているかわざわざ遠くの現地まで行って探るという企画「三遠南信産××育」では、今回、5月23日にさいたま市役所で開催された「浦和うなぎ祭り」に行ってきました。
 東海地方の人間には馴染みのない話ですが、浦和は首都圏屈指の「鰻の町」(産地ではなく消費のほうで)。 毎年やっているこのイベントでは鰻弁当の廉価販売が目玉で、それ用の鰻を舞阪にあるマルハマこと浜名湖養魚漁業協同組合が数年前から供給しているのです。会場にはマルハマと浜名商工会も出店し、浦和のブース以外では一番長い行列ができていました。

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 で、この機会(リサーチと本チャン取材の計2回)に初めて浦和を歩いてみました。浦和というと、レッズの誕生以前は「特急の停まらない数少ない県庁所在地」というマイナー都市のイメージを抱いていたものですが、行ってみたらさすが首都圏だけあって、駅周辺の繁華街はそれなりに賑わっていました。

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 それなりに賑わってるの図。浦和中郵便局前の歩行者専用道路。
 ところが、繁華街エリアから少し離れただけで雰囲気が一変して驚いた。

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 南側は旧中山道沿いの地味な住宅地。うーむ、繁華街は思った以上に小さいらしい。駅前や繁華街の賑わいとは裏腹に、周囲は一般的な地方都市と似たような雰囲気が漂っており、そのあたりはやはり東京と埼玉の差ということなのだろうか。

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 いっぽう東側は県庁を中心とする官庁街で、役人らしき人が目立つ印象。浦和駅前通りをまっすぐ歩いてゆくと自動的に県庁にたどり着きます。左に見えるのは取材でお世話になった鰻屋、中村家さん。
 宿場町なので古くから人口密集地ではあったのでしょうが、官庁街が繁華街と隣接しているので、県庁など役所の存在が町の発展にとってデカかったであろうことは容易に推測できます。郡役所ができて急発展した田口と同じですね。規模は雲泥の差ですが。
 そんな官庁シティの浦和では、このような名前のストリートも。

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 埼玉県庁官舎の裏門に通じる道だったので「裏門通り」とのこと。写真には人が見えませんが、飲食店や商店が連なってなかなか味わい深く、昼どきだと人通りも多そう。

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 そんな浦和の地元キャラは、うなこちゃんでした。鰻…なのか?、オニギリさんではなく?
 それにしてもどこかで見た雰囲気だなと思ったら、やなせたかしデザインでした。マルハマの横にブースを出していた多治見のキャラ、うながっぱもやなせたかし(→●□)。
(まさ)

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東日本 | Comments(0) | Trackback(0)

田口におけるストリート名称の件

2015年09月19日
 春夏秋冬叢書の季刊誌「そう」48号連動ネタで、もう一回、田口。
 田口の市街地は南のほうから順に本町、栄町、太田口と、三つの地区に分かれています。ほぼ街道筋にのみ人家が集まる宿場町風の構造なので、××通りのようなストリート名は存在しないみたいです。じゃあ標題はなんなんだって?まァまァ、シリーズってことでサ、ここはひとつ…。

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 本町。「蓬莱泉」の関谷醸造がある地区で、名前のとおりもともとの田口の中心地区になります。明治11年までは「田口町村」でした。

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 栄町。設楽警察署のほか、かつては県事務所、役場、郵便局などが連なる官庁街でもありました。明治11年までは「西路村」で、本町より格下の位置付けだったのですが、北設楽郡役所が置かれてから急速に発展して中心地区の地位を本町から奪ったという、いわば下剋上を成し遂げた町です。「栄」の名はそれに由来。

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 ちなみにこちらは栄町の旧道(設楽署の東側あたり)。現在の国道257号は設楽署の前で滑らかなカーブを描いていますが、その道はかつて、本町から郡役所に通じる「門前道路」として造られた行き止まり道だったのを、昭和のいつごろかに(たぶん戦後だと思うが…)開かれて今のような道路になりました。

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 太田口。明治11年までは「東路村」で、西路村に郡役所が置かれたことで市街地が東に広がり、栄町ともに繁華街として急成長しました。
 いつの間にか地元では「大田口」に変更されたらしく、写真に見えるバス停のほか、国道257号と国道473号の交差点名もそうなっています。設楽町誌や各種資料、国土地理院の地形図などは「太田口」の表記で、たしか名鉄バス時代は太田口バス停だったように覚えているが、ナゼ?
 もっとも設楽町には、名倉に対する大名倉という集落があるし、大のほうがしっくりくる気がするけど。

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 太田口にはもう一つ、交差点のそばに道路元標があることが謎。
 今でこそ二本の国道が交わる地点だけれど、古い地図を見ると、北設の二大巨頭のもう一方である本郷への幹線道路は、ここから少し西寄りで分岐していたらしい。それに上記の歴史を見てゆくと、ここは田口の端っこ。 本来なら本町か栄町に建てられて然るべきと思うのだが。

150920-6.jpg※クリックで拡大します。

 以前、尾張大野の手描き地図を載せたので(→●□)、また作ってみました。
(まさ)

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東三河雑 | Comments(2) | Trackback(0)

墓地ビュー

2015年09月17日
 春夏秋冬叢書の季刊誌「そう」48号連動ネタで昨日の続き。
 田口市街の好眺望スポットとして奥三河総合センターと田口小学校付近を取り上げましたが、町の南に小さい山(センターと郷土館のある山)がそびえているため、いずれからも全体を一望することはできません。
 そこで、市街地北の山の中腹にある福田寺(ふくでんじ)に登ってみました。

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 武田信玄の墓があることで有名ですね。信玄は天正元年(1573)の野田城攻めの帰途、この寺で病に伏せ、そのまま死んでしまったと伝えられています。田口では奥三河郷土館と並ぶ数少ない名所。
 ここの鐘楼堂からも町は眺められるのですが、上の写真の左の方へ行くと急傾斜地に開かれた墓地があり、そこからの眺望が素晴らしい。

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 バーンと、栄町、太田口方面を望む。

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 ドーンと、本町方面を望む。

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 でもってここからも、例によってHINOMIが!コレのアップはこちら→●□
 うーむ、なんとなくここでも田口押しへの共感が得られそうにない感触が…。ともかく、田舎では墓地がその地域で一番のビューポイントということがよくあるので、地元民ヅラで墓参のふりしてのチェックは欠かせませんネ!という話でした。
(まさ)

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田口におけるナントカと煙

2015年09月16日
 三遠南信の地域雑誌、春夏秋冬叢書の季刊誌「そう」48号が発売中です。

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 今号のキーワードは「口」ということで、女性取材記者(まり)が浜松の特産品である口風琴=ハーモニカを、わたくし(まさ)は毎回やってる地名探訪と三遠南信産××育を担当しております。
 今回の地名で取り上げたのは東三河を代表する口地名、田口です。どういう代表だ。

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 田口は、言わずと知れた設楽町の中心地区。かつては北設楽郡役所の所在地で、現在も北設を管轄する設楽警察署、北設唯一の旧東海銀行支店である三菱東京UFJ銀行田口特別出張所、鳳来以北の最後の高校である田口高校などがあり、郡都の名残りが感じられる町です。もっとも、そんなことを感じるのはわたくしだけかもしれません。

 僕が初めて田口を訪れたのは、大学1年だった平成2年の夏。サークルで「田口線廃線跡探索ツアー」を企画し、男女7人でバスに乗ってやって来たのでした。男女7人マニア物語。
 鳳来町の端に位置する滝上から乗ったバスは、トンネルを二つ抜けて清崎を過ぎると、ぐんぐん急坂を登ってゆきます。どこまで登るんだ?と思ったあたりで道路沿いに家が現れ、サミットを越えて緩い下り坂をちょいと走ると、終点の田口バス停に到着。バスを降りた瞬間、田口に心を掴まれました。
 そしてウロウロ町を歩き回ってみて、外界からの距離(はるばる来たぜ感)、隔絶感のある盆地地形、そこそこ大きい町並み、田口のバスターミナルに漂う山奥の交通拠点らしい風情、そして人の気配がない谷底でひっそりと朽ちてゆく旧三河田口駅と、すべてが心情にハマったように感じたものです。
 そんな我が心のベストテン第一位(古い)たる田口が醸し出す「隔絶した土地の大きな町」感を写真で表現するにはどうするのがいいかと考えると、高台から見下ろすのが最適だろうと思い、過去に高所から撮った田口の町を振り返ってみました。

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(2014.10.08)

 奥三河総合センターから見た田口。天上の楽園的な…。25年前の初訪時にも見ており、強く感銘を受けたのでした。ちなみに本誌では、ここから見た田口の夜景の写真が採用されております(セレクトは編集長)。田口の夜景なんぞが紙媒体で取り上げられたのは、おそらく本邦初でこれが最後でしょう。

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(2014.03.15)

 田口小学校の校地の端から見た田口。なかなかの密集っぷり、実に結構なものです。

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(2010.09.18)

 もっと高いところからだとこう見えます。東海自然歩道の「御殿岩」から眺めた田口。いやはや、すごい場所に町があるもんだ。
 えー、なんというか、ここまでの田口押しに共感する人はいなさそうですね…。
(まさ)
東三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)

過去の遠鉄バスにおけるバス停のバリエーションの件

2015年09月13日
 90年代のバス停写真はキリがないのでまたの機会に…と言ったそばから、ついでなのでバス停ポールだけの写真をいくつか。

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(引佐・奥山バス停 1996.02.02)

 まずはもっともスタンダードな形状のひとつ、市街地および主要停留所用のラケット型バス停。手書きっぽい文字が最大の特徴。現在のものは、既成品フォントの停留所名の下にアルファベットを併記していますが、当時はありませんでした。
 写真は奥山半僧坊(→●□)最寄りの奥山バス停。見どころは、次の停留所として廃止された奥山高原方面の「自然休養村」バス停が入っていることと、行き先欄に同じく廃止された舘山寺奥山線の「舘山寺温泉」バス停が入っていること。二つの観光地を結ぶマニアックな路線を近年まで存続させていた点は、さすが遠鉄といったところ。

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(浜松・新津町バス停 1995.01.26)

 浜松市街ではこのような四角柱型も、わずかですがありました。写真は早出線の新津町バス停。早出線は早出上公園行きのほか、当時は曳馬地区を経由する環状系統もありました。

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(浜松・村櫛海岸バス停 1996.04.22)

 続いてローカル系統のスタンダード、カマボコ型バス停。後継タイプは鉄製ですが、当時はプラスチック製で、ときどき割れているものも見かけました。
 写真は舘山寺線の観光系統で、一般便の終点である村櫛を通り過ぎて中之島経由で弁天島温泉へ行く区間の停留所。いちおう村櫛海水浴場の最寄りですが、こんなところで下車した客がいたんだろうか。

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(引佐・川名バス停 1992.03.09)

 これはおそらく、ローカル系統の前世代型バス停。天竜川以東には当時いくつか残っていたように思いますが、天竜川以西ではここ以外で見た記憶がありません。昨日の神増原バス停は赤・黄・赤の配色でしたが、こちらは色が褪せたのか白・赤・白に赤の縁取りになっています。
 川名バス停は、車庫のあった伊平と東久留女木新田を結ぶ渋川線支線の系統。

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(磐田駅前 1992.12.24)

 最後に、磐田駅前のバス乗り場案内板。まだ「国鉄磐田駅」の表記のまま。背後には国鉄臭がプンプンだった旧磐田駅舎や、自笑亭の外付け立ち食いソバスタンドも見えます。
 磐田はこのあと、駅舎だけでなく駅前広場や駅前通りまで一掃してしまい、当時と今ではまるで別の町になっちゃいました。もはや市街中心部にマニアが見るべきものはありません。
 そんなわけで、キリがないので続きはまたの機会に…。
(まさ)

◎過去の豊鉄バスにおけるバス停のバリエーションの件→●□
遠州雑 | Comments(2) | Trackback(0)

遠鉄バスの90年代、の一部

2015年09月12日
 先日のコメント欄に昔の遠鉄バスの写真のリクエストがありましたんで、実家の資料小屋から探してみました。とりあえずバスの車体が写り込んでいるものから廃止・転換路線や現状とかけ離れているをものを数枚、無造作に選んでアップします。例によってiPhoneでのテキトー接写ですんで、ボケててすいません。
 

(三ヶ日・只木バス停 1992.05.29)

 三ヶ日町内の学輸主体の路線で、たしか只木‐三ヶ日‐本坂という運行系統だったように思います。当時は沿線の大福寺に分校があり、3年生までが分校に、4年生以上が本校の西小にバスで通っていました。写っているヘルメット姿の子供らはバスに乗って学校から帰ってきたところ。これは乗車して撮りました。


(三ヶ日・大谷バス停 1992.10..09)

 こちらも三ヶ日の学輸系統。大谷地区の小学生が都筑にある東小に通うために運行されていました。背景の建物は旧大谷分校校舎で、グラウンドが乗降場兼バス反転場というすごいロケーション。バス停のポールもグラウンドの隅に置かれていました。これは豊橋から自転車で行き、運行時間にあわせて現場で待ち構えて撮ったもの。まだギリギリ鷹揚な時代でしたなあ。


(引佐・田沢バス停 1992.03.09)

 遠鉄最後の愛知県乗り入れ系統で、本長篠と田沢を結んでいた鳳来寺線のバスです。田沢では渋川線と接続しており、鳳来寺線のバスは田沢小学校(現引佐北部小)の先の狭い敷地で反転していました。この路線は旧鳳来町山吉田地区の人が本長篠に出るためのもので、渋川線との接続はほとんど考慮されていなかったような覚えがあります。


(浜松・滝沢東バス停 1992.10.xx)

 都田線のうち、都田駅前から旧浜松市北端の滝沢地区へ行く枝線系統の終点です。沿線には鷲沢風穴(→●□)があり、風穴入口というバス停もありました。途中にあった滝沢小学校は7、8年前に廃校になっております。


(浜松・吉野バス停 1995.05.16)

 三方原の北西に位置する吉野町は現在の花川町になります。吉野バス停は笠井高台線の終点だったのですが、この写真を撮った二日前に花川運動公園まで延長され、バス停も移設されていました。のちに停留所名も町名変更にあわせて「花川」に改称されています。


(磐田・神増原バス停 1994.06.08)

 磐田駅前から磐田市北部・袋井市山梨方面へ行く草崎大藤線の枝線系統です。茶畑の広がる磐田原の北端に位置し、バス停兼反転場も茶畑の脇にムリヤリ設置したような風情。写真だと少しわかりにくいけどバス停板が赤・黄・赤の配色で、遠鉄のイメージカラーである緑色が使われていません。天竜川以東ではこのタイプをたまに見かけました。


(袋井・山梨バス停 1994.01.05)

 その草崎大藤線の終点、山梨バス停と乗務員休憩所です。山梨は大規模な区画整理と県道58号の改修で風景がかなり変わっており、撮影した頃には区画整理事業反対の立て看板がいくつか見られました。山梨バス停じたいは現存ですが、今や当時の面影は皆無です。あと、道路の向かい側には静鉄の営業所もありました。
 90年代のバス停写真は自分でもアホかと思うほど撮っており、キリがないのでまたの機会に…。
(まさ)
遠州雑 | Comments(2) | Trackback(0)

カンバンの手帖ブログ版0311

2015年09月11日
 先月末、夏の最後のレジャーということで、大府にぶどう狩りに行ってみました。市街北部の長根山地区が産地で、県内では一番古くからぶどう狩りをやっています。
 長根山のぶどう狩りは、大府中学校の北西あたりにある受付でまず料金を払い(Mapionでいうと上鴨池のほとり)、組合の6農園のどこかに振り分けられるのでそこに移動するという仕組み。料金は大人1500円で、8月下旬以降は巨峰になります。

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 この受付からして、ぶどう狩りのパイオニアらしくグッときますネ!プレハブ小屋に中日新聞の旗がずらり。すぐそばの丘にこそぶどう畑が広がっているものの周囲は新興住宅地で、レジャー地とは思えないギャップも面白い。

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 この時は、案内所から車で2、3分の、横根町の二ツ池公園の西にある農園が割り振られました。着いてみると、実に大府らしい景観。まあ、このあたりは頻繁に車で通ってので特に感慨はないけど。
 なかなか味わい深い手作りカンバンに導かれて、農園へ。

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 もうひとつ味わい深いカンバンが。

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 さらに園内にも味わい深いカンバンが!

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 カンバンと同じく農園じたいもまったく気取りがなく、やや傾斜のある草生した地面や、無造作に置かれたステンレスの水洗い場、貸し出しの古いビニールゴザなど全てが味わい深い。昭和のレジャー地の風情でありました。
 巨峰はたいへん美味かったです。ただ、房も粒も大きくて自分には2房が限界。4人(爺婆&4歳児)で行って元が取れたかは微妙なところ。
(まさ)

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タウンアーチの先へ0049

2015年09月07日
 夏の出し漏らしネタ。8月半ば、何かの用事があって海部郡方面に行き、十何年かぶりに甚目寺観音と門前界隈をウロウロしてみました。甚目寺門前には商工会アーチがいくつかあり、町の味わい深さを倍増させていて実にいい。

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 重要文化財の南大門と、特に文化財的価値は認められていないアーチである。

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 重要文化財の東門と、特に文化財的価値は認められていないアーチおよび商店街である。シブい、シブすぎる!
 このアーチには珍しく製造年と製作者を記した銘板が付いており、甚目寺町制50周年記念事業の一環で昭和57年10月に中央スタヂオという業者が製作したらしい。

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 参拝したら、境内で興味深いものを発見。大正6年に、大須にあった旭遊廓の楼主・林政治郎が寄進した「ミニ四国八十八ヶ所」です。
 この人は知多四国の弘法道の丁石や標柱などを多く寄進しており、これとほぼ同じ大きさ、同じ書体の標柱が、常滑の知多四国66番中之坊寺にあります。探せば名古屋近郊でもっと発見できそうだ。

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 ミニ八十八ヶ所の一番には、地元の人の寄進を示す標柱も立っていました。政治郎氏と地元の共同製作ということか?解明したい!けど、解明したところで「だからナニ?」という感じになりそうな気がしなくもないですが…。

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 オマケ。南大門門前の公共施設「甚目寺会館」の片隅に、甚目寺村道路元標が転がしてあった。甚目寺会館内に民俗資料館もあるのにこの扱いはいかがなものか…と言いたいところだが、石標の地中部分がこれだけ長いことが分かるし、これはこれでまあいいかな。
(まさ)

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◎弘法ネタ参考記事
遊廓楼主寄進物について→●□
ミニ八十八ヶ所について→●□●□●□
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さらば旧名古屋水主町局

2015年09月05日
 日本郵政HPの「開局情報」の欄に、名古屋きっての古局舎で営業している名古屋水主町(かこまち)郵便局が8/24に移転すると掲載されていたので、移転数日前に20年ぶりに行ってみました。
 当局は名古屋駅南東約1km、江川線の水主町交差点北西角にあります。局の前は幹線道路なので車でときどき通り、そのたびに生存確認しながら「いつまで残るかなあ」と見守っていたのですが、いよいよか…。

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 それにしても、昭和20、30年代の風情をとどめる、いい建築物です。登録文化財級。
 ところが、窓口でもらった移転のチラシによれば、「38年間、現在の場所でご利用いただいてまいりましたが云々」とある。ん?この場所での営業は昭和52年から?なんと意外に最近ではないか。ということはこれは純粋な局舎建築ではなく、局はテナントだったのか。うーむ。
 どうでもいいですが、むかしヒマだったとき(今もか)各地の市町村史などを漁って郵便局の変遷を調べまくったことがありましたが、昭和52年頃は、中央からの通達があったらしく局舎の移転新築ラッシュの様相を呈した時期でした。水主町局もその流れに関係あるのかもしれません(ないのかもしれません)。

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 局前には、昔の書体の交差点表示板も健在。これの設置年を誰か知っていたら教えてください。
(まさ)

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◎マルカドブックス

2冊更新しました。
番外 火花→●□
0159 人とミルクの1万年→●□
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職人技 on the 壁0007

2015年09月02日
 千葉県北総滞在中、暇つぶし&4歳児対策として、かなり足を伸ばして銚子電鉄に乗りに行ってみました。13年ぶり。

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 この鉄道は最高ですね。平成も30年近くなろうというのに、いまだこんな雰囲気のよい路線があるのは本当に驚き。4歳児も存分に楽しんでおられた。
 夏休み真っただ中とあってマニア少年がけっこうたくさん乗っており、みんなで先頭かぶりつきする光景は実に微笑ましかった。4歳児はまだ背が低いので、ずっと抱きかかえさせらて参ったが…。中央線沿線から家族でやってきた小学生のおにいちゃんとも交流し「僕ね、特急かいじが好きなんだ!」というアピールに対して「ぼくはパノラマスーパーがすき!」と4歳児が返し、「知らん」と言われておった。関東のお子様は名鉄には興味ないらしい。

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 終点の外川では、漁港前の食堂で昼食をとり、13年前の記憶がまるでない町を徘徊。傾斜地および断崖上に展開する港町で、地形的にも景観的にも特異でなかなか面白く、4歳児もそれんなりに楽しんでおられた。
 そんな町の中に蔵造りの豆腐屋(写真中央)があり、壁にあしらわれた屋合が凄かった。

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 フッフッフッフッ。
(まさ)
千葉雑 | Comments(2) | Trackback(0)
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