さらば常滑市民病院

2015年04月30日
 常滑駅の北西にある常滑市民病院が、明日から常滑インター南の飛香台に移転します。

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 さすがのわたくしも公立病院までは守備範囲じゃなかったのですが、知多半島のローカル媒体で取材する機会があり、先の三月に初めて行きました。
 オープンは昭和34年で、建物も完成から55年も経つとさすがに古びている。狭くていささか薄暗いので、患者として来ていたらちょっとダークになったかもしれないけれど、マニア的にはなかなかいい味わいになっております。

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 旧病院は、よく見ると全体が二色のタイルで覆われています。さすがタイルの町。完成当初は市の広報に「美しい空色のタイルに包まれて目の覚めるような新鮮な姿」と紹介されるほどだったのに、今では汚れが目立って微妙な色に…。
 りんくう地区が埋め立てられていなかった頃は、病院の前は海でした。原稿を書くため病院20年誌を読んでいたら、なんとここの売りのひとつが「海が見える手術室」だったという。人伝に聞いたところでは、医師には好評だったらしい…。

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 正面入口には、門柱ならぬ門壁?が。ここにもスカイブルーのタイル。

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 いかにも昭和30年代っぽい明朝体と、杉本健吉デザインの常滑市章が実に味わい深い。撤去するには惜しいこれらのアイテム、新病院か陶の森資料館にもで移設してほしいですが…。

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 非常に狭苦しい中庭には、片岡静観(→●□)が手掛けた「健康の像」がありました。あまりに狭い中庭だったので、存在に気付いていた人は非常に少なかったと思われます。
 しかしなんでまた、常滑を代表する陶彫家の作品がこのような気の毒な扱いを?と思ったら、昔は広い中庭だったのに、待合ロビー拡張のため中庭を潰していった結果こうなってしまったらしい。昔の規格で設計された病院なので、増改築は仕方がない…。
 なお、この像はだいぶ先になりますが新病院に移設されるとのこと。よかったよかった。
 取材させてもらった縁もあることだし、せっかくなんで新病院で診察されたいものですが、わたしゃ常滑市民どころか知多半島の人間ですらないのであった。
(まさ)

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◎お知らせ
別のところで書いていた読書感想文をまとめたブログを開設しましたので、ヒマな方はご覧ください。
fc2がいろいろアレなんで、ライブドアブログにしてみました。今後fc2、どうなるんですかね?
マルカドブックス→●□
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知多雑 | Comments(0) | Trackback(0)

重原でもぞろぞろ

2015年04月28日
 日曜日は好天のもと、地元の上重原町の古刹、萬福寺にて開創1200年&本堂再建落慶法要の稚児行列が執り行われまして、ウチの4歳児も参列してきました。
 稚児行列は昨日今日の二日間に分けて行われ、二日あわせてなんと800人もの稚児が参集。一日400人に親や祖父母なども加わって、上重原開闢以来の大行列が出現したのであった!

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 かつてこれほどの行列が上重原にできたことがあっただろうか!って、随伴の大人が多すぎてどこに稚児がいるのかよくわからないが…。

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 参列者があまりに多くて、最後尾集団のわれわれは出発点の八剣社から目と鼻の先の萬福寺まで1時間くらいかかるわ、暑すぎて子供も保護者も寺に着くまでにヘロヘロになるわ、4歳児は出発直前に「カルピスウォーターが飲みたい」などと駄々をこねるわ、衣裳の一部が途中で取れるわ、方々で子供の泣き叫ぶ声が響き渡るわ、もう大騒ぎ。
 まあでも、4歳児は新装なった本堂でちゃんと手を合わせてお参りしてくれたので、門徒としての面目は立った。
(まさ)
西三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)

意外な国鉄の遺物

2015年04月26日
 西尾に続いてこれまた三月アタマの話ですが、久しぶりに長野県最南端駅の所在地として知られる天龍村の中井侍へ行き、取材先の製茶組合の方から聞いた情報。
 中井侍では昭和40年代後半から茶の産地となり、生産量が増えたのを受けて昭和50年頃に自前の製茶工場を区内に設けたのですが、その建物がなんと国鉄の施設を転用したものという。

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 中井侍-伊那小沢間の観音山トンネル付け替え工事(昭和49年)のとき、現場の工事事務所として使われていた建物の移築だそうです。

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 正面から見るとよく分からないけれど、横から見ると構造が確かにそれっぽい。工場を建てるとき「地元で使うならば」と無償提供の話があったので、渡りに船と譲り受けたとのこと。このような知られざる転用例は、きっと他にもあることでしょう。

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 話をうかがった方によると、自家用にのみ茶を作っていた昭和30年前後には小和田の製茶工場(→●□)に持って行ったことがあったそうな。その方いわく「小和田の製茶は上手だった」と。機械の製茶にも上手下手があるとは。

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 あと、中井侍駅にはかつて駅舎があって切符の委託販売を行っていた(※委託は昭和46年まで)との証言も得ました。この狭いホームのどこに駅舎が建っていたのだろう?きっと待合室に毛の生えた程度の小さいものだったのでしょう。
(まさ)
伊那谷雑 | Comments(0) | Trackback(0)

名もなき寺

2015年04月24日
 寺津橋へ行った日には旧一色町の西部をウロウロしており、国道247号からもよく見える巨大な楼門なんぞを見物したりしていました。

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 どどーんとそびえる赤羽別院親宣寺 の楼門です。見事。見事だけどここに書くような話は特にない。
 ついでにあたりも徘徊してみたら、すぐ東に赤羽別院とは好対照の小さな寺がありました。

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 あったのだけど、寺号がどこにも書いてない。門柱は皇紀2600年(昭和15年)記念に作られたもので、弘法霊場の札所を示す「三河准四国第四十九番霊場」の文字のみ。寺の人もいないし、家でネット地図で調べりゃいいかと思って帰って寺を後にしたのだが、検索したらこんな表示だった。



 拡大しないと文字が出てこない。拡大しても「第四十九番霊場」なんて、調査がぬるいぞ!これはgoogle mapですが、この寺の名前を載せている地図サイトは、調べた限りひとつもなかった(どこも同じゼンリンのデータを使っているから当然だが)。
 で、この三河准四国の49番というのもよくわかりません。愛知札所めぐりという素晴らしいサイトに愛知県じゅうの弘法霊場が網羅されているのだが、「三河新四国」「参河國准四国」いずれの項の49番札所もこの寺ではない。
 このサイト内を探し回ったら、どうやら「北城山瑞雲寺」という名の浄土宗寺院で、西尾・幡豆全域(一部蒲郡市あり)をめぐる「三河海岸弘法八十八ヶ所」の49番であることがようやく判明しました!って「!」マークをつけるほどのことでもないか。しかしこの門柱、誤発注だろうか?

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 いつも以上にどうでもいい話題だったので、オマケ。寺最寄りだった名鉄三河線西一色駅跡の現状。三河線の廃止から10年経ちましたが、廃線跡はほぼほったらかしのようです。サイクリングロード化などはせず(碧南も西尾も財政的にゆとりがないか)、現状維持を希望。
(まさ)
西三河雑 | Comments(4) | Trackback(0)

寺津橋とその周辺

2015年04月22日
 3月アタマ、久しぶりに西尾方面に行って出し忘れていたネタ。
 寺津の中心部の寺津町交差点(西尾寺津郵便局のところ)から東へ600mほど行くと、平坂入江に架かる寺津橋があります。現行の橋は昭和50年の架橋で、そのすぐ下流に、使われなくなりながら放置されて久しい旧寺津橋が残っています。

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 橋の東詰に建っていた記念碑によると昭和24年の架橋。ぜんぶ壊せばよさそうなもんだが、なぜか真ん中の道路部分だけ撤去されています。
 東側は完全に通行禁止なのですが、西側はなぜか通行可能で、切れる手前に階段が付いており、川の流れに沿って設置された桟橋のような構造物に下りられます。

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 うーむ、意味が分からない。釣り以外に用途が思い浮かばないが、こんな中途半端なところにわざわざ作る理由もなさそうだし。とりあえず下りて展望を楽しんでみましたが、特に楽しくはなかったのですぐに川岸に戻ったのであった。

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 ちなみに記念碑がこれ。こんな大胆な筆跡の記念碑も珍しい。背面に刻まれた架橋委員たちの名前は普通に達筆なのだが…。なお、碑の製造者として岡崎の石工、加藤賢三氏の銘があります。

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 旧橋東詰の手前に悪水路(排水路)をまたぐ小さな橋が残っており、こちらも完全に用無し状態。戦後間もない頃に架けられた橋らしく、名前は「平和橋」。

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 西詰側にも小橋が残っていましたが、こちらは親柱もないし、橋の向こうは耕地整理されててどう道が繋がっていたのかまったく分からない。北海道の廃線跡のようだ。
 あと50年残ったら、全部まとめて登録文化財にでもしていただきたいところです。

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 オマケ。現寺津橋の西詰北側親柱。校正ミスか?
(まさ)
西三河雑 | Comments(6) | Trackback(0)

ぞろぞろ

2015年04月20日
 土曜日は東浦町で開催された「於大まつり」を、いちおう取材で見物に。於大は家康の母で、町内にあった緒川城の生まれ。そのゆかりで「於大のみち」という明徳寺川沿いの遊歩道や「於大公園」が整備されております。
 このイベントのメインは、遊歩道から乾坤院を経て公園までの行列です。

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 幼少時の於大の方を中心に、武将や雑兵のコスプレ軍団、地元キャラのハリボテ、和太鼓グループ、ご当地音頭を踊るおばさま方、鼓笛隊、保護者、アマチュアカメラマン、この日開催されていたJR東海さわやかウォーキングの参加者、ウチの3歳児等がごっちゃになってダラダラと練り歩くさまは、実にゆるい。
 町のHPには「時代絵巻」と書いてあるけど私服の人が多すぎてそんな感じでもなく、コンセプトとしては「なんだかよくわからないけど、天気もいいし八重桜もきれいだし、なんとなくみんなで歩きましょうヨ!」というところでしょうか。東浦ののどかな農村景観を愛でつつ、町民も見物人も一緒になってぞろぞろ歩くことがこのイベントの真髄。若者が勇躍する山車祭やおまんととは好対照で、たまにはこういうのも気楽でよいものです。もっとも、人がごちゃごちゃで媒体向けの写真が撮りにくいけど…。

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 ときどき、行列のなかから唐突に「エイエイオー!」の雄叫びがあがる。なに?なにが起きたの!?

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 3歳児は「怖いヨー!」と逃げ出してしまったのであった…ということはなく、行列に溶け込んで乾坤院まで歩き、参拝してチョコバナナをむさぼり食って駆けっこをしまくって、かなり満喫していたようでした。
(まさ)
知多雑 | Comments(0) | Trackback(0)

タウンアーチの先へ0050

2015年04月18日
 千葉県北総滞在中の暇つぶしシリーズ、今回は鎌ヶ谷という町に行ってみました。大雑把にいうと、寅さんの柴又帝釈天から真東へ10kmほどのところに位置する古いベッドタウンです。東海地方の人にとっては「どこそれ?」という感じのマイナーシティですが、日ハムの2軍が本拠を置いていることで野球好きには有名。あと鉄道マニアには、北総鉄道と新京成電鉄と東武野田線の3路線が交差していることで有名。
 滞在先から北総鉄道、東武野田線と電車を乗り継いで、やってきました鎌ヶ谷駅。

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 出迎えてくれたのは「ペアロード 梨の木通り」のアーチ。って、船橋と白井(→●□)だけでなく、ここも梨が名産だったとは。隣接した地域なので不思議ではないが、ふなっしーにすべて持っていかれとるがね。

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 持っていかれてしまった悲運の地元キャラである。

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 中心市街地は特にどうということもないのでさらっとスルーしましててきとうに歩いて行ったら、鎌ヶ谷駅から10分程の住宅地の中に唐突に梨畑が表れました。このあたりの景観は豊橋の三本木町あたりとほぼ同じ。

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 畑をやりすごすと住宅地や保全雑木林などがダラダラ広がっており、自衛隊習志野基地から飛んでくる飛行機の音をBGMに実に地味な景観を満喫して30分ほど歩くと、豊橋の南栄駅前を二倍程度にぎやかにしたような新京成電鉄鎌ヶ谷大仏駅前に出ました。
 駅すぐ近くの墓地の中には、日ハム2軍、梨とならぶ三大鎌ヶ谷名物のひとつ、安永5年(1774)の造立の「鎌ヶ谷大仏」があるというので参拝。

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 高さは1.8m、大仏なのに小さいということで有名らしい…。
(まさ)
千葉雑 | Comments(0) | Trackback(0)

カンバンの手帖ブログ版0299

2015年04月16日
 吉原や日本堤を歩いた翌日も滞在先の千葉から東京に出まして、墨田区や葛飾区あたりをウロチョロしましたが、メジャーな下町のことは様々な媒体に出ており、イナカから来たわたくしが今更書くようなこともない。なので、気になったカンバンだけ出しておきます。

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 東京のカンバンといえば、変体仮名カンバンに遭遇する確率が地方より高いような気がします。これは台東区日本堤一丁目にて見つけたもの。読めん!たぶん「そば處」と思われるが…。

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 都電荒川線の終点、三ノ輪橋駅前で発見。これは分かりやすい、草加「せんべい」。

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 葛飾区の京成立石駅前のアーケード商店街で見つけた「もつ焼き」の店。「宇ちだ」「煮こみ」と書かれています。
 午前中から長蛇の列で、15分ほど並んで入ると店内はギチギチ。おまけにメニューも書いてないので非常にビビりましたが、開き直って田舎者オーラを出しつつ周りの人を真似して注文してみました。うまかった。後で調べたら超有名店らしい。

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 京成立石駅にあった、カンバンというか日付表示版。こんな乗降客の多い駅でこんなレアものが現役とは、さすが東京。こういうパタパタ式のカレンダーが、トヨテツの南栄駅か柳生橋駅に昔あったような覚えがあります。

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 東武鉄道の鐘ヶ淵駅近くで発見。「急くな」と。

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 同じく鐘ヶ淵駅付近の公園にて。昭和40、50年代の江戸のチビっ子たちが描かれているのである。
(まさ)
東京雑 | Comments(0) | Trackback(0)

恋のアーケード0032/タウンサインの研究0063

2015年04月14日
 そんなわけで吉原の店をちょいと冷やかしてみたり…はせず、大門跡からそのまま東へ進んで台東区日本堤一丁目へ。日本堤は別名「吉原土手」で、浅草から吉原へ行くルートだったとか。
 非常にマニアックな話ですが(いつもか)、戦前まで亀崎の酒蔵が「日本堤」という酒を造っており、その後、成岩の知多酒造(→●□)に銘柄が譲渡され、80年代前半まで販売されていたようです。なんで知多半島の蔵元が江戸の地名を酒の名前にしたのかよくわかりませんが、廻船で酒を江戸に運んだ時(知多の酒は江戸で「中国酒」と呼ばれ人気があった)、ちょいと吉原まで遊びに行ってたいそう楽しかったもんで、つい採用しちゃった…というところでしょうか。
 そんなことはどうでもよくて、大通りからちょっと中に入ると、不意にアーケード商店街が出現。

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 江戸文字の「いろは会」と、昭和50年代ぽいファンシー書体の「ショップ・メイト」がアンバランスで、実にこう、パンチがきいております。
 でもって、大須ではなくどこか円頓寺的な雰囲気の漂うアーケードの中に入ってみたら、本当のパンチが飛んできた。

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 この町は山谷(さんや)に隣接しており、なんと「あしたのジョー」の舞台だったのである!って、世代的に読んでいませんが…。
 「いろは会」のサイトによると、さすが東京、商店街はかなり歴史があるらしい。商店街組織は大正8年に結成され、「いろは会」の名が付いたのは大正11年。アーケード完成と「ショップ・メイト」の愛称は昭和51年。あしたのジョーでのふるさととしての売り出しは平成22年。そんな商店街の明日はどっちだ。

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 日本堤からさらに歩きまして、都電荒川線の終点の三ノ輪橋駅に行くと、こちらにもアーケード商店街が伸びていました。商店街名は「ジョイフル三ノ輪」。オランダ国旗と同じ配色の横断幕が掲げられていますが、別に蘭学ゆかりの地とかそういうことではない…と思う。ピンク地のフラッグには都電が描かれています。

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 商店街キャラは日本堤の矢吹丈とは対照的な雰囲気の、昭和50年代チックな「ジョイフルくん」だったヨ!(名前はテキトー)
(まさ)
東京雑 | Comments(0) | Trackback(0)

ヨシのワラワラ

2015年04月12日
 三月末は数日間、例によって「Iターン里帰り」で千葉県北総へ。今回は妻子が先行し、僕は仕事を片付けてから一日遅れで追っかけ。単独行動だったので千葉入りするまえに東京をフラフラしてみようってんで、上野あたりから吉原まで歩いてみました。
 吉原は、言わずと知れた日本最大の遊廓があった場所。現行地名としては残っておらず、現在は台東区千束四丁目の一帯になります。浅草寺から北へ1キロのところ。

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 西外れから吉原中心部を見るとこんな感じです。それらしい風景には見えませんが、町の中ほどまで行くと、風俗店が建ち並んでいて驚いた。店の人もあちこちに立っているし、そんなところでカメラを構えるのは野暮な田舎者の所業ですんで、要部は撮っておりません。

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 ちょうど吉原の「裏門」にあたる場所に「仲之町通り」を示すポールが立っていました。仲之町といえば思い出すのが、豊橋の東田仲の町。そこはもと赤線で、東田遊廓が消滅した戦後、旧遊廓の隣接地の一角を造成して再興された「東田園」に相当します(→●□)。町名は赤線廃止後の昭和35年に付けられましたが(それまでは岩田町の一部)、間違いなく吉原の仲之町にあやかっての命名。豊橋なんぞにも粋な役人がいたもんだ。

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 表入り口の「大門(おおもん)」跡地にも同様のポールあり。落語の明烏のサゲに出てくる「大門で止められる」ってのがここかァ、おそれいったねどうも、ってなもんで田舎者らしく感動しました。
 大門といえば思い出すのが、名古屋市中村区の大門町。こちらは中村遊廓のメインストリートに相当する町名になります(→●□●□)。ここの場合は「だいもんちょう」と読むはずだが、今、郵便局の郵便番号検索サイトを見てみたら「おおもんちょう」になっている。いつの間にか読み方が変更されたのだろうか?

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 吉原遊廓の南西にある吉原弁財天にも寄ってみると、玉垣に落語の文七元結に出てくる吉原きっての大店「角海老」の名が!こいつぁおみそれしやした、ってなもんで、田舎者らしく感動しきりの次第です。
(まさ)
東京雑 | Comments(0) | Trackback(0)

SRPの今

2015年04月10日
 先月半ば、子連れで北遠と東栄町をウロウロと調査徘徊に行きまして、3歳児対策として中部天竜と水窪の間を飯田線で往復してみました。中部天竜駅に立ち寄るのは二年ぶり(→●□)。

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 寄るのは2年ぶりだが、この区間を乗るのはいったい何年ぶりか…。
 前回、跡地が一部工事中だった旧佐久間レールパーク(現役時代→●□)の展示室でもと中部天竜機関区の建物は、写真左に見えるとおり健在です。

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 入り口に掲げられた古車輛パネルも残っております。ていうか、こんなものがあったことに気が付かなかった。

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 でもって、前回工事中で「情報通の友人によると、なにかの工場が建つということだが…」と書いた場所には、工場ではなくアパートができていました。銘板によると「中部天竜フラット プレミール中部天竜」というわけがわからない名前。

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 オマケ。現在工事中の原田橋の迂回路。新東名や国道151号の電光表示では「原田橋 通行止」となっていますが(3月18日現在)、橋の少し下流に、強引に造った感が漂う仮設道路があり、東栄・浦川方面から中部へは自動車で行くことが可能です。
 それにしても原田橋の崩壊にはたまげた。亡くなられた市職員の御冥福をお祈りします。
(まさ)
遠州雑 | Comments(0) | Trackback(0)

エレクトリックな武豊線

2015年04月08日
 そういえば3月1日に武豊線が電化されていました。

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(電化前最後に撮った武豊線の気動車・東成岩-武豊間の衣浦踏切 2015.02.18)

 沿線自治体の長年の悲願がかない、ようございました(JRは、請願が要因ではなく車輛運用上の有利さから電化を決めたという話だが…)。
 電化にあわせてローカル媒体でも武豊線の特集を組んだのですが、なんせその媒体の配布エリアが武豊・常滑以南で、武豊線といっても武豊町内の2キロ弱しかない。そこで、武豊線本体よりも、武豊港貨物線と武豊駅から西へ伸びていた日本油脂武豊工場(現日油愛知事業所)専用線のことを取り上げました。目玉は、資料館所蔵の武豊港駅構内配線図の掲載と、日油専用線の現役時代の古写真です。管内の役所、常滑駅構内セラモール、JA等に置いてあるので、興味のある方はぜひ。

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 で、日油にも話を聞きに行き、あまり知られていない(と思われる)事実がいくつか判明しました。
 日油専用線は工場内に自家発電装置を備えた電化路線で、昭和61年に廃止された後も、路盤と架線がそのままになっているのだが、これは路盤も架線もまだ生きているから。路盤下には配水管が埋設されているとのこと。架線柱は左側だけ高く、送電線が引かれています。この不思議な形の架線柱は、現役時代からこうだったと。

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 日油専用線では、廃止されるまで武豊駅付近の第一工場と六貫山の第二工場間で従業員輸送用の電車を走らせていました。その従業員輸送専用車両が、図書館付近にある長尾児童館に保存してあります。保存というか、活動部屋として今も活用されている模様。かつてはもう一両が東大高児童館にあったが、老朽化のため撤去されたとのこと。

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 戦前には専用線を営業路線化して内海まで延長する構想もあったそうな。
(まさ)

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知多雑 | Comments(2) | Trackback(0)

轟く叫びを耳にして

2015年04月06日
 揖斐川町の実家に帰った土曜日、用事があってたまたま隣町(大野町)の旧黒野駅跡前を通りかかったら、公園化された駅跡で式典が催され人がわらわら集まっていた。何事かと思って見に行ったら、むかし揖斐線を走っていたモ512が来年3月まで期間限定展示され、その「おかえりなさい式典」なのでした。

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 どこにあったのかと思ったら、旧美濃駅で保存展示されていたのをレンタルしたとのこと。うーむ、この車両が美濃市に行っていたとは知らなかった。子供のころから何度となく乗っていた電車が、こうして文化財的に展示される日がこようとは…。
 それどころか、黒野駅跡がこのようにきれいに公園整備されていたのも知らなかったぞ。10年前に廃止されてから来ることがなかったので、僕の中では黒野駅はまだ電車が走ってたころのまま。さっぱりしすぎのこの風景にはまだ慣れません。
 ちなみに本揖斐駅跡は「さっぱりするぎにも程がある」という整備をやらかしており、黒野までとはいかずとももうちょっとメモリアルな場にすればよかったのにと思うのだが、まあ、わが町の行政にはその手のことは期待できん。
 なお、祭の法被を着た子供たちはイベントのにぎやかしではなく、隣接する八幡神社でちょうど例祭があったから。

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 駅舎は、1階がイートインスペースの広いパン屋に、2階は大がかりな鉄道模型ジオラマ展示場になっていた。考えてみると、子供の頃から馴染み深い駅舎なのに2階を意識したことはなかった。そうか、2階があったんだなあ。廃止前に上がりたかったぞ。

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 そんなこんなで親が感傷に浸っているあいだ、3歳児は大野町のジオラマ(の外縁を周回する新幹線)に釘付けなのであった。黒野駅の隣の中之元駅まで再現されており、感涙。
 どうもいいですがわたくし高校生のころ、中之元駅の業務委託最終日に硬券切符を買いあさりにきており、それをネタにエッセイを書いて「旅と鉄道」誌の読者投稿コーナーに応募したら採用されたという輝かしい過去があります。今だに同じようなことをやっててメシの種にしているわけで、我ながら進歩がない。

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 あとオマケ。むかしの改札口に駅の備品であろう金庫が置いてあり、その銘板が逸品。「坂登屋」に聞き覚えがあると思ったら、尾張横須賀の事務用品店らしい。このネタはそのうちローカル媒体向けに突っ込んでみようと思います。
(まさ)
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のぎやん0010

2015年04月04日
 二見浦の続き、というか岡崎産石造物の話の続き。
 一月下旬、とある取材で岐南町の八剣神社に行ったところ、岡崎産品を大量に発見。どこそれ?というようなマイナー神社ですが、参道が東海道線で分断されている神社、といえば分かる人もいるのでは。

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 これです。80年代末から90年代初頭にかけて路上観察がはやった頃に雑誌か書籍で取り上げられていましたが、それ以外では媒体に登場したのを見たことがありません。そんな神社でなんの取材かというと、木曽川中流域のローカル媒体に「池田輝政鎧かけ松の碑」なるものを掲載するため。
 で、参道にずらっと並ぶこの石灯籠が岡崎産でした。

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 標柱によると昭和32年に寄進されたもので、このお二人が製作したらしい。こんなにもたくさんをたった二人で!?ってことはないと思うが、突っ込んで調べてみる余力は、まあ、ない。
 先に石材店で聞いた話では、家康つながりってことで日光東照宮の参道にも大量の岡崎産石灯籠があるらしいので、いずれ行ってみようと思います。

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 境内の一角には、台座付きの乃木大将石像もありました。紀元2600年(昭和15年)を記念して建立されたもの。銘はないけど岡崎産か?

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 なお、最大の目的の「池田輝政鎧かけ松の碑」はこれです。関ヶ原合戦の直前、池田輝政が織田秀信の籠城する岐阜城を攻めたとき、ここに立ち寄って休憩したとかなんとか。碑も囲いの石もどこの産品かは不明。
(まさ)
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伊勢知多タートルブリッジ

2015年04月02日
 間が空きましたが二見浦の続き。
 前回、海辺の園地に埋まるカバの写真を載せましたが、明治42年、ここで海に放された巨カバならぬ巨カメが、対岸の知多半島に打ち上げられたという記録が残っています。そして、昭和初期に造られたそのカメの等身大セメント像が南知多町豊浜小佐の浄土寺(知多四国番外札所)にあります。

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 かわいい、かわいすぎる!
 このカメのいわくは以下のとおり。

 カメを放したのは谷村佐助という伊賀上野の豪商。この人は、長患いで余命いくばくもないとき、大海龍大神なるカメの姿をした神様が夢枕に現れ「我を17日間一心に拝めば病はたちまち治るだう」と告げられた。
 そこでカメを探しに番頭を伊勢へ派遣したところ、二見浦で網にかかった大きなカメに遭遇。これぞ例のカメに違いない!と思った番頭は、大金を出してカメを買い取り、列車の貨車に積み込んで伊賀上野へ移送。佐助はそのカメに注連縄を巻いて祀り17日間祈り続けたところ、あら不思議、病はすっかり完治した。

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 喜んだ佐助氏はカメの甲羅に、自分と一族の名前とともに「奉大海龍大神」と書き、二見浦から亀を海へ帰した。その9日後、豊浜村の小佐に打ち上げられたところを村人に発見される。村人はあわてて浄土寺の和尚に連絡する。和尚は昨晩、白髪の老人となった亀が夢枕に立ち「我を祀れば所願成就するであろう」と告げられていたので、たいそう驚いてカメを境内に運ばせたが、カメは死んでしまった。

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 和尚はカメの墓を建てて供養し、「大海龍亀大菩薩」と名付けた。やがてその霊験が広まって参拝客が増えると、大海龍亀大菩薩は「お亀さん」と呼ばれて親しまれるようになった。
 昭和初期に伊賀上野の谷村佐助や、信仰したら坐骨神経症が治ってしまった三河新川の瓦職人らが寄進し、本堂の傍らに「龍亀堂」が建てられた。カメの像もその頃に作られたもの。

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 てな話を、少し前に知多半島南部限定のローカル媒体に書きました。こんな具合に無節操にエリア横断して取材していると、いろいろつながるものである。つながってないか。

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