道標地蔵たち0005

2014年06月30日
 春夏秋冬叢書「そう43号」連動ネタ。
 今回の地名探訪で取り上げた「金地名」の旧御津町の金野は、前にも書いたように(→●□)金割と灰野の合成地名で、現在は西金野、東金野と通称されます。そして灰野はかつて、県道373号から5百メートルほど北に入った山の中にありましたが、昭和41年までに全戸移転してしまいました(先の記事では昭和30年代とぼやかしていましたが、広報みと第84号に灰野について書かれたコラムを発見し、移転の正確な年が判明)。

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県道373号と東金野のHINOMI
 
 なぜ移転したかというと不便だからで、なぜそんな不便な場所に集落があったかというと、以前は幹線道路に近かったからです。
 その幹線道路とは、御油~金野~西郡(にしのこおり=今の蒲郡中心部)を結ぶ道。御油はむかし郡役所があった宝飯郡の中心都市、西郡は「西宝」と呼ばれた宝飯郡西部の中心都市。つまり、宝飯郡の主要2町を最短距離で結ぶ道だったわけです。
 その名残で、このルートは今も県道368号(豊川蒲郡線)となっています。しかしそのうち、御油の「東三河ふるさと公園」から東金野までは、自動車が通行できません。「酷道」の県道版ですな。ルートはこちらを参照→●□。Googleマップでは、ある程度の縮尺以上になると道が太く表示され、さも車道のようになってます。Googleマップはたまにこういうテキトーなところがありますね。
 で、三年前はその街道を辿っていなかったので、今回歩いてみました。「灰野坂」と呼ばれていたそうな。

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 今の東金野から少し入ると、道が二手に分かれます。左へ行くと灰野の廃集落、右へ行くと御油方面。分岐点には祠があります。地図上の左のピンのところ。

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 中には文政年間に建立された馬頭観音が。判読しづらいですが「右 御油/左 作場」と刻まれています。作場は畑のこと。
 右へ進むとやがて木立の中に伸びる緩い登り坂になり、15分ほどで灰野の廃集落方面からの道と合流し、掘割になったサミットへ。

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 おお、なかなか街道風情があるぞ。この合流点にも祠があり、先と同じく文政年間の馬頭観音が。地図上の右のピンのところです。

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 こちらには「右 かう中…/左 西之郡」の文字。かう中は「郷中」、つまり灰野本村のことか?西郡は、明治初年に蒲形と合併して「蒲郡」となりました。どうでもいいけど、蒲郡という地名は秀逸だなあ。「小市民」がヒットした頃に嘉門達夫が「ジミ、ジミ、地味な地名、ガマゴオリ、可児市」などと歌っていたことを思い出します。

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 旧御油町と旧御津村のちょうど境には「御津村大字金野」と記された境界票もあった。シブいねどうも。
 この灰野坂、けっこうお手軽に廃れた街道や廃集落が楽しめますし、街道マニアやヒマで何もすることがない人などは、行ってみてもいいんではないでしょうか。ただ、これからの時期はヤブ蚊がすごいけど。
(まさ)

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カナザワンダー

2014年06月27日
 春夏秋冬叢書「そう43号」連動ネタ。金次郎像ではなく、毎号やってる「地名探訪」のほうです。
 今回は「金地名」ってことで、編集会議でリクエストがあった旧御津町の金野を取り上げました。29号の「野地名」で少し書き、当ブログでも三年半前に触れましたが(→●□)、今回はその増補改訂版というところです。
 最初は一宮町の金沢を取り上げたくて、締め切り直前までネタを探したのですが、いかんせん膨らまなかった。

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大坂神社の下から集落中心部と本宮山を望む

 金沢は豊川左岸の集落で、明治11年から昭和26年まで単独で「八名郡金沢村」でした。昭和26年から昭和30年までは、南隣の賀茂村と合併し「八名郡双和村」になったものの、昭和30年に解消して一宮村にくっつきました。自治体の夫婦不和ですネ!
 ちなみに金沢小学校も昭和51年度までありましたが、大和小学校(ここ→●□)と統合して一宮南部小学校となり、川のすぐ向こうに新校舎が建設されました。一宮南部小学校には、旧金沢小と旧大和小の二体の金次郎像があります。

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別所街道の旧道

 本誌の「地名探訪」では、その地名の由来(伝承や推測含む)をとっかかりに話を膨らますのを定番としています。ところが、この金沢という地名の由来が、まったくわからなかった。
 金沢という地名は、明治11年に御薗村と養父村が合併した際に命名されたものです。しかし、金沢の元ネタはいったいなんなのか。記録もないし、伝承もないし、教委や郷土史家に聞いてもわからない。唯一関連するのが村の真ん中にある「金山」という小字で、これをアレンジしたとも考えられなくはない。だとしても、沢はどこから湧いて出た?
 結論としましては、明治の地名はお偉いさんがテキトーに決めたとしか思えないものが多く、まあ、ここもそのひとつなんでしょう。そのお偉いさんが実は百万石の金沢出身だったとか、金沢に旅行した時「いいね!」と思ってここにつけちゃたとか。
 というわけで、これ以上膨らませようがないので取り上げるのを断念した次第です。なお、明治のテキトー地名の代表例は、吉田を改称した「豊橋」(→●□)。

 (1993.12.23撮影)

 そんなオチじゃなんですし、昔の豊鉄バス写真の評判が意外にいいのでオマケ(前回同様iPhoneでテキトー接写)。いつの間にやら廃止なった豊鉄バス金沢線の金沢口バス停。この、赤白赤の小型バス停板が好きだったなあ~。


(1993.12.03撮影)

 金沢線は、終点の江島下バス停で新城市街へ向かう中宇利線と接続し、乗客の便を図っていました。驚くのは、写真のように実際に乗り継ぐ人がいたということ。江島下バス停は旧江島橋へと通じる道沿いの豊川堤防手前に位置し、田んぼの中にバスの反転場がありました。確か今もこの跡地が残っていたと思います。
(まさ)

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足っ苦素

2014年06月24日
 ふたたび春夏秋冬叢書「そう43号」連動ネタ。東日本大震災を受けて、旧渥美町の3校を統合して高台に移転するという話が進んでいますが、それと関連するような関連しないような話、って、じゃあなぜ振るのか。
 渥美半島は意外にも戦後に小学校の統廃合がほとんどなく、たしか唯一の事例が蔵王山の北東にある童浦小学校です。この学校は昭和43年に田原西部小と田原北部小が統合して誕生しました。童浦小には、現校地のやや北(今の保育園、市民館)にあった旧田原北部小の金次郎像が移設されています。
 もうひとつの田原西部小は、白谷地区の高台にありました。立派な公園が付設された白谷海水浴場のある、海辺の集落です。

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 こういうところ。手前の椰子は白谷海浜公園。背後の白い岩肌は石灰採掘の跡で、地質が白いので「白谷」の地名がついたそうな。山の反対側には現役の石灰石鉱山があります。
 で、10年くらい前に旧田原西部小へ来た時には金次郎像を見た覚えがなかったのだけど、とりあえずチェックだけしておこうと今年の2月に行ってみました。

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 跡地は公民館になっており、門柱と校舎の一部が残存しています。狭い敷地を改めて眺めまわしてみると、なんと片隅に金坊の残骸が!

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 残っているのは台座と足の下のほうだけ。足首より上はどこへ行ったんだ!?学校の怪談になりそうである。
 学校の怪談といえば、われわれ昭和50年代の小学生は口裂け女話で持ちきりでしたね。なんでも岐阜県内の小学校が噂の発信源だったといわれており、「地味な県なのに全国区のネタを提供するなんてすごいぜ!」と小学生のときテンションがあがったことが懐かしく思い出されます。

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 ここでは金次郎像の遺構のほかに、斬新なブランコを発見。当時の飼育係がウサギに芸を教えるのに使っていたということです。
(まさ)

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カンバンの手帖ブログ版0274

2014年06月23日
 春夏秋冬叢書「そう43号」の東三河金次郎像チェックの際、久しぶりに杉山の中心部を通りかかったのでその写真でも。
 杉山は豊橋市の最南西端に位置する丘陵地の農村です。昭和30年までは渥美郡杉山村という自治体がありましたが、昭和の合併時に二分され、杉山の本村は豊橋市に、昨日豊鉄バスネタでチラッと出てきた六連地区は田原町にくっついています。
 玄関口は渥美線にある杉山駅ですが、そこはいわば「村の外れ」。小学校や市民館(旧役場)のある中心部は、駅前から長いダラダラ坂を登った丘の上になります。

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 杉山小学校東のこのへんが、商店が集まる杉山のメインストリート。シブい、シブすぎる!
 この通り沿いで、杉山らしさ全開のシブい施設への方角を示す、カンバンというか「標識」を発見。

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 農村婦人の家だ!「老人憩いの家」などはよくあるけど「婦人」主体の集会所的施設というのは珍しいのではないか。その場所へ行くと、建物はまだありました。機会があれば、どのように使われていたか、あるいは今も婦人に使われているのか、取材してみたいものです(機会があるかどうか微妙)。
 なお、この「標識」は豊橋市内全域で見かけるので、市のオフィシャルなものと思われます。
(まさ)

◎豊橋市の「標識」いろいろ
雲谷→●□
伊古部→●□
石巻萩平→●□
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豊橋ダラリズム

2014年06月22日
 昨日の続きで、豊橋ナツカシ写真館。
 昨日アップしたバスターミナルの写真を撮影した平成6年9月30日は何の日だったかと言いますと、豊鉄バス表浜線の末端区間が廃止になる日だったのでした。昨日同様iPhoneでのテキトー接写につき、ボケておりますことをご容赦ください。


(1994.09.30撮影)

 当時の表浜線は、豊橋駅前からユニチカを経由して伊古部まで南下、伊古部から表浜街道を走り田原市六連の浜田バス停に至る路線。この日限りで廃止になったのは、豊橋市の一番はずれの城下バス停から浜田までの3キロ弱で、豊鉄バスの南部エリアでは、僕が豊橋に来た平成2年以降で最初に廃止された区間でした。
 こりゃイカンってんで、最終日の最終バスを撮りに行ったのでした。この時、写真を撮ってたのは僕一人。のび太がコレクションしていた、某月某日の三河屋で買われた唯一のコラ・コーラの王冠ほどの価値がある!と当時は思っていたわけですが、こうして日の目を見せてしみじみ思い返すと、学生とはいえ平日の昼間にわしゃ何をやっとんのじゃ。
 これ以後、豊鉄バスの赤字路線は廃止が相次いで路線網がガタガタになり、今では表浜線じたい跡形もありません。伊古部や野依の人は町へ出るのにどーすんのよ!って、どうとでもなるか…。


(1994.09.30撮影)

 そしてこの日はついでに豊橋バスターミナルを見物し、今では存在していたことすら信じられない豊橋-田口直通便のバスも撮ってみたりしました。このバスにノスタルジーを感じる人などほとんどいないでしょうが、背後に見える西武はとよはしっ子なら懐かしい…よね?(とよはしっ子というフレーズも懐かしい)


(1994.05.25撮影)

 あと、旧豊橋駅舎にあったJRバスおよび豊鉄・サンライズバスの切符売り場の写真も出てきた。いろんなバスが走ってていい時代だったなあ。
(まさ)
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スタンディング・オン・ザ・TBT

2014年06月21日
 今度は金次郎像で「そう43号」連動ネタ。
 東三河の廃校における金次郎像探しでは、学校の名残がほとんどないようなところに立っているものにも遭遇しました。そのひとつが豊橋の町のド真ん中、旧狭間小学校の金次郎像。

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 現在は名豊ビルと、その裏の「狭間児童広場」がある場所が学校の跡地になります。名豊ビルの竣工は昭和43年。昔はたんなる「地味なビル」にしか見えませんでしたが、年月を重ねていい感じに味わいが出てまいりました。小学校があったのは昭和24年までで、松山小学校に吸収合併されて廃校となっています。
 旧狭間小学校の金次郎像は、児童広場の片隅に立っておりました。

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 この像、以前は名豊ビルの玄関前、すなわち駅前大通りにあり、大学時代に初めて見たとき「ナゼ?」と思った覚えがあります。像の傍らに建立された碑によると、廃校後はそのまま放置され、のちに松山小に移設。昭和60年にもともとあった場所である名豊ビル前に再移設し、さらに平成17年に現在地へ再々移設されたそうな。
 ところでこの名豊ビル&児童広場の地下には、かつてバスターミナルがありました。確か今は月極駐車場になってると思います。実家で古いアルバムを漁ったら写真が出てきたのでご紹介しましょう。なお、iPhoneでテキトーに接写したのでぼけてます。


(1994.09.30撮影、以下同じ)

 正式名称は「豊橋市バスターミナル」。この明朝系の書体が、いかにもザ・昭和40年代。
 当初は豊鉄だけでなく遠鉄や名鉄(のちのサンライズバス)も乗り入れていたようです。大むかし豊橋~東栄~豊根の特急バスが運行されていた時代があり、それもここ発着だったはず。なお、二川、新居町へのJRバスは豊橋駅に出札窓口があり、BTには乗り入れていませんでした。



 なんか薄暗かった覚えがあるけど、こういう雰囲気は「バス旅の始まり」って感じでなかなかいいですね。と言っても僕は、小松原街道沿いの西の原バス停近くのアパートに帰る際、1回だけしかここを利用したことがないですが。
 たしか当時、豊鉄はBT始発と駅前始発の2パターン態勢になっていましたが、どういう棲み分けだったかあまり覚えていない(長距離路線では、田口行や富岡経由新城行きはBT発、渥美半島行きは駅前発だった)。最初から豊橋駅前に集約すれば便利なように思うけど、駅前広場がバスターミナルとして全面活用できなかった何らかの事情があったのでしょうなあ。



 この売店なんて旅情ありまくりじゃないか。中央牛乳やヤマサのちくわの冷蔵ケースまで置いてある。田口方面に帰る人が、お土産にちくわを買って帰ったのか。酔っ払ってご帰還の波平が家族へのお土産を手にしているように、あのヤマサの包みを…。
 市制百周年記念本の「豊橋百科事典」によると、バスターミナルが機能していたのは昭和44年から平成18年までとのこと。意外に最近まで使われていたとは驚いた。
(まさ)
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月の兎

2014年06月20日
 またまた春夏秋冬叢書「そう43号」連動ネタ。奥三河金次郎像チェックの途上、平成18年3月まで月にあった小学校に行ってみました。あ、いや、東栄町の月という集落にあった旧月小学校に寄ってみました。ここは金次郎像不在です。どこが連動ネタなのか。

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 地名も秀逸ですが、ロケーションもなかなか。学校の背後には、モコッとしたいい形の御殿山がそびえています。民家は、先の西薗目ほどではないけれど川沿いの低所から山の中腹まで散らばり、けっこうな高低差があります。
 校舎じたいは横長の平屋建てで、木の板壁部分が少ないので木造校舎といえども若干地味ではありますが、玄関に名品が残されています。

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 懸魚に月で餅をつく兎のレリーフが!なんという風雅さ!そもそも懸魚がある校舎というのが珍しい。まさしく「寺子屋」。素敵な学校だったのでしょう。

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 ちなみに校章は桜に東栄町章を重ねたもの。三日月にでもすればよかったのに…。旧御園小や旧粟代小も同じようなデザインなので、町内統一ということでしょう。

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 あと、校庭の隅には「月の沙漠」をモチーフにしたと思われるラクダのセメント像が!うちの坊主のフェイバリットソングでしょっちゅう口ずさんでいるので、不意にラクダに出会えて大興奮!なお、なぜこんなシブい歌が好きなのかは、親にも分らないのである。
(まさ)
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小学校には金次郎のほかにもさまざまな像が

2014年06月19日
 今日も春夏秋冬叢書「そう43号」連動ネタ。
 金次郎像は造形や材質がしっかりしている(?)ので、たとえ廃校になっても割と状態よく残っているものですが、卒業記念などで子どもたちによって作られたと思われるセメント像は、管理する人もないまま風雪にさらされ、にんともかんともな状態になっていることが多いです。金次郎チェックしながら見つけたそういう例をいくつか…。

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 東栄町の旧御園小学校。東栄町の最高所に位置する「天空の廃校」です。学校跡のすぐ下に「茶禅一」という美味い蕎麦屋があります。

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 バレーボールをブロックするウサギちゃんである(たぶん)。

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 東栄町の旧粟代小学校。寺と神社が学校の敷地内にあるという、ものすごいロケーションの廃校です。向かいに「三信鉱工」という化粧品原料の世界的メーカーがあります。

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 「ええじゃないか」で降ってきたお札をキャッチしようとしているのである(たぶん)。

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 設楽町の旧三都橋小学校。この校区には「××の霊泉(湧水)」が点在しており、奥三河でもちょっと特異なエリアです。

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 はじめての視力検査に臨む子供のようである。

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 3歳児検診に備えて、このあいだ家で練習したのである。
 僕の地元では、昭和50年代後半にはこのような卒業記念「像」は作っていた記憶がありません。おそらく全国的にも同じ傾向のような気がしますが、どうか?自分の顔のレリーフとかはあったかな?製作経験のある人がいたら教えてください。
 それにしても、まさか数十年後に自分の母校が廃校になるとは、製作した当時の人は想像もしていなかったでしょう。しかし仮に学校が現役であっても劣化は免れまい。壁画系の記念製作で色褪せたり汚れたりしたものもよく見かけるし、こういうのはなかなか難しいようで…。
(まさ)

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山上のゴールデン次郎

2014年06月18日
 前回に続いて春夏秋冬叢書「そう43号」連動ネタ。
 廃校マニアのワタクシ、これまでに奥三河のほとんどの廃校を回ったつもりでおりましたが、金次郎像チェックのために改めて廃校の所在地を確認していたところ、東栄町の西薗目小学校跡がノーマークだったことに気が付きました。どこかというと、東栄町役場から国道473号を浦川方面へ4kmほど走ったところで大千瀬川支流沿いの道に入り、1キロちょい走って急坂の枝道に入り…って、地図を載せたほうが早い。



 とにかく山奥なのである。まあ奥三河は全部そうか。
 西薗目の特徴は山の急斜面に小集落が散らばっていることで、一番下の民家と一番上の民家の標高差は200mくらいあります。さらに、山の尾根の向こう側にも小集落があったりして、図にするとこんな感じの、なかなかダイナミックなところです。

 霜栗                 /\
                 文/    \小田敷
  上         若竹/         \ →至ル東薗目
  貝  西      / 元平
\ 津  薗     /
  \  目 平 /
    \川 瀬

 うーん、これではダイナミックさが伝わらない。しかもスマホ画面では図が崩壊しとるやんけ。PCでご覧ください…。
 西薗目小学校があったのは地区の最高所。なんでまたこんなところに作ったのか。川の西側の子供なんか、一回谷底まで下りてまた山頂手前まで登らなければいけない。昔の子供はすごい。
 西薗目からの登り道はなかなか狭く急で、山道に慣れていない人にはちょっと大変だと思います。木立の中をぐんぐん登ってゆくと、やがて視界が開けて若竹集落。

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 集落といっても3軒くらいしか見当たりません。奥に見えるのは、川向うの山の斜面に建つ民家。目と鼻の先なのに、そこからここまで歩いて来ようと思うと1時間はかかります。
 ここからさらにちょっと登ると、目指す小学校跡を発見。

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 八幡神社の横にある広場が学校の跡地になります。白い建物は老人憩いの家で、学校跡地の碑が建っています。廃校は昭和34年だけど、碑の建立はおそらく最近。

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 肝心の金次郎像は、杉林を背にポツンと立っておりました。背景とほとんど同化しています。55年もひとりぼっちでなあ…。

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 このあとは峠を越え、上の写真の小田敷集落を経て東薗目へ。なお、和太鼓プロチーム「志多ら」の稽古場になっている旧東薗目小は、金次郎像不在です。
(まさ)

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ゴールデン次郎

2014年06月15日
 三遠南信エリアの地域雑誌、春夏秋冬叢書の季刊誌「そう」43号が発売中です。

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 今号のキーワードは「金」ということで、わたくし(まさ)は二宮金次郎の記事などを担当しました。小学校のシンボルとしてお馴染みのこの方ですね。

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(ベーシックな金次郎像の例。新城市玖老勢、旧鳳来小学校跡地)

 小学校に設置された最古の金次郎像は、豊橋の前芝小の大正13年製のもの。全国の学校に普及したのは昭和初期、岡崎の石材組合が不況の打開策として企画し、盛んな販促活動を展開したことによります。愛知県の教育関係者の研究によると、愛知県の場合昭和40年代半ばの時点で新設校以外にはほとんど存在したとのこと。今もけっこうな割合で残っています。ない場合の理由は今やほとんど不明ですが、「ある日突然崩れた」「一時期、撤去しようという動きが一部であった」などの証言あり。
 金次郎自身も像自体についても火の見櫓以上に研究されており、特筆すべき目新しいネタはないので、とりあえず判明している範囲で東三河の小学校・廃小学校の像を全部を押さえてみました。まさに質より量ですな。金次郎像については、時々コメントをいただく同好の士SさんのHP(検索→「尾張の火の見櫓」)をはじめ素晴らしい先達サイトがあるので、探すのは火の見櫓よりずいぶん楽です。

 で、完全網羅できたかどうかはわからないけれど東三河114校116体(1校に2体ある例が2件あり)も見まして、最終的に何がわかったかといいますと、個々の来歴を探るのはかなり難しいということ。あと、火の見櫓と同じで基本形はあれど、よく見れば完全一致の像はまずないと言ってよく、職人のセンスや技量でけっこう差があるということ。
 新城市の廃校からその一例を挙げてみますと…

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(旧市川小学校)

 少しオバサンくさかったり。

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(旧吉川小学校)

 少し微笑んでいたり。いったい何を読んでいるのか。

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(旧富栄小学校)

 視線が完全に本から外れていたり。何かに思い悩み、うわの空のような…。
 他にも、小倉久寛のような顔があったり、ページをめくろうとしている像があったり、持っている本の厚さが広辞苑級だったり、少年像なのに大人以上にデカかったり、小人がいたり、まあいろいろ。
 これを機会に、西三河や遠州の金次郎像コンプリートを目指すつもり…はないっす。大変すぎるので…。
(まさ)

◎金次郎像いろいろ
豊田市越戸・灰寶神社→●□
東栄町下田・旧東部小→●□
東栄町振草・旧小林小→●□
東栄町中設楽・旧中設楽小→●□
新城市愛郷・旧愛郷小学校→●□
東三河雑 | Comments(4) | Trackback(0)

宮前孔雀

2014年06月14日
 3歳児とさまよう公園シリーズ。
 1週間前、瀬戸で開催されていた「ユノネホウボウ」という陶磁器イベントに行きまして、3歳児対策として会場近くの公園で遊ばせたのだが、これがなかなか味わい深い公園だった。

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 深川神社の門前にある「宮前公園」です。すぐ下に瀬戸焼きそばの有名店がある商店長屋「宮前地下街」があるところ。敷地の狭さ、草の生えっぷり、遊具の規模や配置など、市街地の真ん中にこのような昭和テイストな公園はさすが瀬戸というか、今どき貴重ではないか(そんなことないか)。
 この規模なのに動物園舎があるのも驚いた。わかりにくいけど写真左奥の軒と柵がそれ。中では孔雀が飼われておりました。

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 どんどん目がよくなるマジカル・アイか!こういう網も今、あまり見ない気がする…。

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 園内中央には蟻地獄テイストな謎の円形構造物が。ここに何があったんだろうか。
(まさ)
尾張雑 | Comments(0) | Trackback(0)

大高ジュラシックパーク

2014年06月13日
 3歳児とさまよう公園シリーズ。
 先日、なんとなく緑区の公園に行ってみようと思い立ちウロウロしていたところ、大高の砦前交差点のところに遊具が見えたので立ち寄ってみました。どうやら大高緑地の一部のようで、広大な公園の南端に位置するらしい。
 昭和40年代風情の古い遊具と、最近のプラ製巨大遊具が混在する、広さ的にも施設的にもいささか中途半端な風情の公園なのだが、広場の真ん中にデンと居座る遊具には度肝を抜かれた。

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 原寸大(?)の恐竜だ!リアル「のび太の恐竜」ごっこをせよという県の計らいか!こんな顔つきなのに「大ちゃん」「高(こう)ちゃん」という親しみやすい名前が付いております。

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 懐かしのロボットアニメのように、胸のハッチから下りてきた階段を登ってフェードイン!

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 で、飛行機の脱出のように尻尾から滑り降りる、と。うん、まあ、大人でもわりと楽しい…。
 尻尾の滑り台部分は、ツヤのあるコンクリート。昭和の遊具によくあるコンクリートの表面がツルツルでよく滑る、アレです(正式名称を知っている人がいたら教えてください)。たいへん肌ざわりというか尻ざわりがよい。ただ、イマイチ3歳児の興をそそらなかったのか、大ちゃん高ちゃん一回ずつ滑っただけで終わったのだった。

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 一角にはシマウマばかり5頭も!なぜ?他にライオンやトラ、正体不明の動物もいたが、先に行った東海市の中ノ池公園(→●□)の動物のリアルさには及びません。
 ちなみに、園内の古びた案内板によると「この児童園は親、子で考える児童公園計画案の応募作品の中の特選(知事賞)を基に、国際児童年記念事業として建設されました」とのこと。1979年の国際児童年といえばNHKでゴダイゴのビューティフル・ネームがよく流れていたのをうっすらと覚えています。おそらくこの時期、国際児童年を名目に各地で大型公園がバンバン整備されたことでしょう。
 もうひとつ思い出した。大高緑地といえば、むかし名鉄左京山駅の駅名標にカッコ書きで「緑地公園前」と入っていた覚えがあります。そのサブ駅名は今も生きているのだろうか?
(まさ)
名古屋雑 | Comments(0) | Trackback(0)

高浜セントラル劇場

2014年06月11日
 3歳児とさまよう公園シリーズ。
 先日、ふらっと高浜市神明町の葭池住宅北にある中部公園に行ってみました。住宅と大小の店舗が混在する新興地域(といっても整備されてからかなり経つ)の中ほどに、高浜市が威信をかけて整備した都市公園です。大小遊具で子供も楽しく、散策コースや菖蒲園があってお年寄りも楽しく、池や丘や東屋もあって弁当持って家族連れでも楽しく…って、大きい公園はだいたいそうか。

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 目玉遊具のひとつ、ローラーボード練習台…ではなく、波打つゴムの急傾斜を勢いよく駆け下り登って遊ぶコース(名称不詳)。大人でも3分ぐらいは楽しいのである。
 背後には全長45m(観光協会発表数値)のけっこう長い滑り台があります。この滑り台には展望台が付いており、高浜の絶景を堪能してから滑ることになります。

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 絶景を満喫する3歳児。展望台には燦然と輝く高浜市章が!まさしく市の威信をかけた遊具なのである。

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 肝心の滑り台ですが、ローラー式で45mもあっては尻が痛いばかり。3歳児は非常に楽しかったようで10回くらい滑っていたが、遊具は子供だけ楽しけりゃいいってもんではない。
 それにしても「距離が長くて(長ければ長いほどいい)、滑り心地がよくて、景色も楽しい」パーフェクトな滑り台にはなかなか巡り合わないなあ。いつか最高の滑り台に出会える日まで、自分探し…じゃない滑り台探しの旅は続くのである(親の趣味で)。
(まさ)
西三河雑 | Comments(0) | Trackback(0)

一色即是空

2014年06月08日
 一色市街を歩いたついでに三河一色駅跡にも行ってみたところ、いつぞやまでバスの待合所になっていた旧駅舎が取り壊されて、更地になっていました。

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 ちなみに現役時代はこんな風景。

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(2004.02.06撮影)

 大ぶりの駅舎で、駅前売店もあり、三河の名鉄随一の味わい深さだったのだが、駅前の商店街を含めてもはや見る影もありません。
 三河一色駅は一色の東の町はずれに位置しており、市街地に向かって二つの「駅前通り」がありました。ひとつは駅から北西に伸びて本町に通じる「駅前本通」で、おそらく三河一色駅開業時に開かれた古い道筋です。

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 うーむ、特に感想はない。
 もう一本が駅前からまっすぐ西に伸びて、大宝橋の手前で平坂街道(国道247号の旧道)に接続していた「駅前中央通」。詳細は調べていませんが、広さからすると昭和40年代後半に開かれた(もしくは拡張された)っぽい。

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 いやもう見事な閑散っぷりである。道の広さもあいまって、北海道の廃止された国鉄線の駅前通りを彷彿させるサッパリ感。まあ、廃止前も似たような雰囲気だった覚えがあるけど、東海三県で同様の雰囲気を持つ駅前はほかにないと思います。あ、刈谷市駅前がこうなりつつあるか…。
 この通りに廃レストランがあり、ディスプレーに見事なブツが残されていました。

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 デカい、デカすぎる!
 隣のステーキも含めてこういう時代を語る貴重品は、食品サンプルの町として知られる郡上八幡(全国生産の大半を占める)が引き取って永年保存してほしいところです。そうえいば週末に郡上八幡へ行ったら、しばらく来ない間に食品サンプルメーカー直営の製作体験施設が倍増していて驚いた。一時期に比べると観光客がすごく増えているようだけど、いくらなんでもそんなに需要があるのか!?
(まさ)
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一色一色

2014年06月07日
 その一色には数日前にも訪れて、久々に市街中心部を散策してみました。まともに歩いたのは2006年に「西三河今昔写真集」(樹林舎)を作って以来か。豊橋方面へのルートからは大きく外れているので行こうと思わなければ通ることもなく、碧海から「近くて遠い町」です。
 今でこそ「西尾の衛星マチムラ」という印象ですが、むかしは西尾に比肩する「幡豆郡の雄町」だったらしい。城下町西尾に対する港町一色であり、明治から平成に至るまで海老煎餅、海苔、採貝、養鰻、カーネーションなど特徴的かつ大規模な一次系地場産業で発展してきました。この規模の町でこれだけメジャー級(?)のネタが揃っているところもも珍しいのではないか。
 メインストリートは西尾と一色を結ぶ県道12号のうち、大宝橋西詰から北へ500mまでぐらいの区間です。たったこれだけの距離に細かい「町」が連なっており、昔日の繁栄っぷりが偲ばれます。南から順に辿ってゆきますと…

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 桜町である。

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 本町である。

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 中町である。

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 上中町である。

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 栄町である…って、ぜんぶ似たような雰囲気なのに5枚も載せるこたあない。
 このほか、枝道・裏道や旧三河一色駅前界隈にも細かい町名やストリート名があって、マニア的にはかなり面白い。だけど古い家並はあまり残っておらず、観光的にはやはり西尾に軍配が上がるかなあ。もっともその西尾もここ10年でかなり風情が薄まって、どっちもどっち。
 2006年に比べると当然ながら空き地や休業店舗も増えているようです。休業店舗といえば15年ほど前だったか、一色市街に近い国道247号沿いに長野県最大の書店チェーン平安堂がオープンし「なんでこんなところへ?」とたまげたことがあった。けっこうあっさり撤退したと思うが、あれはなんだったんだろう…。
(まさ)
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一色海岸から知多半島を望む

2014年06月05日
平坂や刈宿大仏に行った日は、そもそも一色に用事があったのでした。

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用事というか目的は、一色沖のアサリ漁見物。潮干狩もそうだけどプロの漁も日時限定で、漁の時間は一時間半と決まっているとのこと。
この撮影場所は一色高校のすぐ南で、海の向こうにはボヤーっと知多半島が横たわっています。ここ数年は知多半島の仕事が主で、向こうからこちらを見てばかりだったのだが、こうして久々に反対から見ると実に新鮮。
しかし知多というのはのぺーっとしている。あちらから見ると、三ヶ根山やその奥の山並みでけっこうメリハリがあるのだが。

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父が写真を撮ってる間、付き合わされた3歳児は無心に砂浜をほじくりかえしていた。アサリを採ってるわけではないので念のため。
(まさ)
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3歳児 into 大仏

2014年06月04日
 平坂を軽くチェックしたその日には、平坂から一色方面への道端にデンとお座りになっておられる「刈宿大仏」にも寄ってみました。聚楽園大仏、布袋大仏(→●□)と並び称される愛知県三大仏のひとつ…と言われているかどうかは知らない。

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 西尾市刈宿町の常福寺境内におられます。すぐ脇を通る国道247号からよく見えるのだが、微妙に興をそそられなかったので、今までスルーしてきました。今回はウチの3歳児向けのアトラクションってことで。案内板によると昭和3年の造立とのことで、意外と古い。
 近づいてて拝んでみると、布袋や聚楽園のような異形感は薄く、オーソドックスというかそれなりにシブくはあります。

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 裏に回ると台座の中に入れるではないか。聚楽園大仏は台座があるけど入れないので、刈宿に1ポイント!ということで中に入ってみました。

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 入口の先はすぐ行き止まりで、奥に金色の観音像が祀られています。しかし、両サイドに開かれた穴を潜ると狭い階段があり、登るとそこには極楽浄土が!

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 3歳児が怖気づくようなちょっと怖い空間を期待していたのだが、蛍光灯と白い壁のおかげで妙に明るいのであった。寺好きの3歳児もイマイチ乗ってこず、あっさりと撤収。そういえば聚楽園にも布袋にもそんなに興味を示さなかった。大きい仏さんは意外と幼児向きではないようです(幼児連れで行くようなところでもないが)。
(まさ)
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HEY、SOCCER!

2014年06月02日
 続きまして、東幡豆以上に久しぶりに西尾市平坂を通ったところ、旧平坂支線港前駅跡の港前バス停から待合所が消えうせていた。

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 以前ここにはこのようなものがありました。

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(2004.03.26撮影、以下古写真同じ)

 鉄道時代の遺物と思われる待合室です。名鉄平坂支線は昭和35年まで走っていた西尾-港前間を結ぶ路線で、廃線跡はほぼ全区間が道路に転用され、名残も何もありません。これも本当に遺物だったかどうかは不明ですが、昭和ないいブツでした。
 ついでに三河平坂駅跡も見に行ってみたら、こちらにはホーム、駅名表の枠、ホームのベンチ、ワンマン用のミラー、駅前の「平坂売店」など、意外と残っていて驚いた。

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 廃止直前はこんな感じ。

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 もう10年もたつのか…。走っていたころは「それなりに利用者もいるのに廃止にするなんてひどい話だ」と思っていたのが、なくなって10年もたつと「こんなところによくまあ鉄道が走っていたものだなあ」に変わってしまった。
 考えてみると、このときはまだ結婚していなかったのか…。独身だったころは(以下自粛)。

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 しみじみ思い出したのでもう一枚オマケ、現役時代の三河平坂駅。味気ない駅舎だったのでちょっと趣向を凝らしたつもりなのか、玄関脇に詰まれた穴あきブロックの壁が謎だったなあ。
(まさ)
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テレフォンショッキング法話

2014年06月01日
 暑いですネ!そうですネ!
 ここ2、3年とんとご無沙汰だった旧幡豆郡の海岸部に、先々週、先週とちょこちょこ徘徊する機会がありまして、かなり久しぶりに東幡豆駅裏の「ハズ観音」にも立ち寄ってみました。

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 冬至の日にふるまわれる中風除けのカボチャしるこが有名で(嫁は取材に行ったが僕は食べたことない)、寺号の妙善寺よりも「ハズ観音」「かぼちゃ寺」の通称の方が有名という浄土宗寺院です。山門前に松の老木が生い茂り、目の前は海岸という素晴らしいロケーション。仕事、人間関係、人生等にくたびれて一息つく(サボる)にはいい場所ではないかと。
 サボるだけではなんなのでお参りしたところ、山門脇の黒板にこんなことが書かれていた。

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 テレホン法話!僕が子供のころは、テレホン法話やテレホン昔話などけっこう多かったような覚えがあるけど、この時代にまだやっているとは…。
 で、さきほど(朝5時ごろ)電話をかけて聴いてみた。住職の低い声が梵鐘の残響音のように胸に広がり、朝からしみじみとありがたい気持ちになったのであった。合ッ掌ォ~。

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 オマケ。東幡豆の駅舎は健在。ついでに西幡豆と西浦も相変わらずでした。
(まさ)
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