ミドルセコ

2017年08月08日
 春夏秋冬叢書「そう55号」連動ネタ。もう一つセコ話。
 東三河のセコで唯一町名になっているのが、豊橋市の中世古町。ここです。



 本来はもっと大きく取り上げたいところでしたが、ごくありふれた住宅地なので絵になる写真が撮れそうになく、また、全域が区画整理されてて味のあるセコ道も残っていなので、今回はさらっと本文で触れた程度にとどめました。

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 中世古は豊橋の市街中心部の一角にありますが、東海道吉田宿の24町には含まれていません。「角川日本地名大辞典23愛知県」によると、この地名が登場するのは明治28年。もともとは東海道筋の曲尺手町から南に伸びる「猿屋セコ」沿いに家々が集まった地域で、明治後期に町名を整理した際に中世古と命名されたようです。
 ならば「猿屋世古町」や「猿屋町」にすればよさそうなものですが、なぜか伝統地名は採用されませんでした。サルじゃイメージ的にちょっとどうか…という意見が地元から出たのかも。では、なぜ「中」世古なのか?

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 中央図書館で「吉田宿東海道筋町別地図」を見て、ひとつの説が思い浮かびました。
 吉田宿には何本ものセコ道があり、それぞれに名が記されているのでですが、宿場町東部の三つのセコ「龍拈寺セコ」「猿屋セコ」「談合宮セコ」は、セコといいながらいずれも一間(=1.18m)以上あってけっこう広く、宿場町の中で存在感が際立っています。で、その「吉田宿の三大セコ道」の真ん中に猿屋セコがあることから、「中世古」と名付けたのではないかと…。
 由来を書いてある資料を見たことがないので正しいかどうか不明ですが、もし理由を知っている人がいたらぜひご教示ください。

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 かつての猿屋セコに相当する道は区画整理で消滅してしまいましたが、町内に一ヵ所、このような不自然な鉤型の細道が残されています(地図の「中世古公園」のところ)。なにかいわくがありそうですが…。

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 中世古町内の見どころは並んで建つ二つの寺。そのうちのひとつ、真言宗の清宝寺には四国八十八ヶ所霊場の写しがあり、弘法大師&各寺本尊像が雛壇にずらっと安置されてて圧巻です。
(まさ)

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カンバンの手帖ブログ版0352

2017年07月26日
 春夏秋冬叢書「そう55号」連動ネタ。
 毎号やってる「地名探訪」では、古の付く地名として豊川市の当古(とうご)を取り上げてみました。当欄はキーワード縛りの都合上、マイナーな集落をピックアップせざるをえないことが多いのですが、今回は姫街道の豊川渡河点にある集落ってことで、比較的知られたところではないかと思います。そうか?

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 豊川右岸堤防からみたガラス温室&当古の家並&本宮山。

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 堤防を下りて家並の中に入り込むと、セコというには広すぎる細道がうねうねと入り組んでおります。シブい、シブすぎる!なお、この写真の見どころは、槇の生け垣・コンクリート板・コンクリートブロックと「東三河の農村でよく見られる塀の様式三種類」がぜんぶ写り込んでいることです。
 で、取材のために集落内の旧姫街道を久し振りに徘徊してみたところ、廃商店にこのようなものが残されているのを発見。

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 商業団体加盟店の行燈型カンバンだ!その名も「豊川たのしみ会」。“お”を付けていないところがまたなんとも昭和的で、そのストレートな名称にグッとくるのは僕だけではないはず。僕だけ?

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(2003.09.04。下も)

 以前、これと同類のものに旧一宮町で遭遇したことがあります。砥鹿神社門前にあった大門屋という酒屋さんで、一宮町商工会の「おたのしみ会」のカンバン。大黒さんのロゴ(?)が超絶シブい。

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 この「おたのしみ券」の現物なんてどこかに残っていないだろうか。そういうものも、もうそろそろ資料的価値が出てきそうな時代。
(まさ)

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瀬古サンプル

2017年07月21日
 春夏秋冬叢書「そう55号」連動ネタ。
 先述のとおり渥美半島には「○○瀬古」という小字が40ほどありますが、中でももっとも分かりやすいのが旧渥美町・泉地区にある内陸の小集落、馬伏(ばぶし)。



 ご覧のとおり、人家密集地は「中瀬古」「西瀬古」「東瀬古」とキレイに分かれています(ドラッグすると東瀬古も出てきます)。
 幹線道路からやや離れたこの集落は、東三河フリークを自称するわたくしもこれまで気に留まったことがなかったので、カメラマンAさんと昨年9月に渥美半島の瀬古を巡った際、いい機会なので行ってみました。

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 中瀬古である。

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 西瀬古である。

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 東瀬古である。うーん、シブい、シブすぎる!
 あまりの渋さにカメラマンAさんも、どう撮ったらいいものかと苦慮しておられました。この企画については、僕の担当は文章だけなので気楽なもんです。なお、ここで撮影された写真は本誌に掲載されておりません。
 ところで、地図を見ると分かるように西瀬古と中瀬古はほぼ正方形の区画が三つ並んでいます。実際に歩いてみると、ド農村なのになんだか妙にスッキリ感があって実に不思議。僕もかなりの集落に足を踏み入れていますが、こんな奇妙な感覚になる農村は珍しい。
 歩いているときたまたま出会った元教員の方によると、ここは明治時代に区画整理が行われた先駆的地域とのこと。へぇ~!

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 村をウロウロしていたら立派な銅像に遭遇しました。この人は大久保作吉といい、大正13年に旧渥美郡泉村に酪農を導入し発展させた郷土の偉人です。
 ネットで拾った「泉校区まちづくり推進計画書」によると、明治41年に作吉さんの指導により「集落移転と宅地整理事業が行われ、平均化された宅地(1戸当たり8畝)の造成と道路の拡幅が実現し、現在の地区の骨格が形成」されたとのこと。といこうとは、その時に瀬古の付く小字を制定したことになります。実にシブく、興味深い話ではないですか。そう思うのは僕だけ?もうちょい突っ込んで調べてみたいネタですので、詳しいことはいずれまた…。
(まさ)

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瀬古ビッチ&ドワルスキー

2017年07月14日
 春夏秋冬叢書「そう55号」連動ネタ。
 セコは基本的に「狭い道」を意味すると書きましたが、田原市に行くと「瀬古」の文字を当てる小字が40ほどあります(例:野田町辻瀬古、福江町上紺屋瀬古など)。大学時代に豊橋に住んでいた僕は「セコは道の意味」との認識があったので、これはどういうことかと前から疑問に思っていたのですが、今回の取材で渥美の方に聞いて初めて謎が解けました。本誌にも書いたとおり、渥美半島でセコといえば、集落の一部分の集まり=コミュニティのことだったのです。それが小字の地名として現れる場合もあれば、地名ではなくても隣組のような集落内組織を「セコ」と呼んだりもしているとのこと。

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 それを端的に表わすモノが何かないかいな…と考えたとき、旧赤羽根町赤羽根地区の秋葉山常夜燈を思い出しました。

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 台座部分に「瀬古中安全」と記されています。この箇所は「村中安全」となっている場合が多いのですが、赤羽根では村を意味する言葉が瀬古であることを、これが示しているのです。
 この常夜燈は字枝古ですが、地元の人に聞いたところ自分たちの村のことを「枝古瀬古」と呼んでいるとのこと。
 これで赤羽根の瀬古にいい感じのセコ道があれば完璧ですが、そう都合よくはいかない。細い道こそ多いものの軽自動車なら通れたり、雰囲気的にもうひとつパンチがなかったりと、いささか微妙。
 
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 字枝古と字市場の境に一本だけ、このような味わい深い道を見つけたのですが、木立の中に入り込んで行くこの道は「建物と建物の間に通じる小道」というセコの概念とはちょっと違う。

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 この道を抜けると海岸に出ます。おお、雄大。こんな景色を眺めていると、チマチマとセコ探索しているのがアホらしくなってきますネ!
 などと言いながら、三河湾を挟んだ一色や幡豆でもセコを小集落の意味で使うと書かれている郷土資料もあるので、このネタはもう少し追究してみたいところではあります。
(まさ)
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三浦さんと杉山さん

2017年07月05日
 春夏秋冬叢書「そう55号」連動ネタ。
 カメラマンAさんとともにいざ形原のセコに入り込まんとしたとき、県道321号沿いでこのような石像を発見。

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 三浦萬太郎という人の像です。どんな人だったのかが台座の裏に刻まれており、以下要点。

◎明治2年に形原本町で生まれた医師で、慈善事業に情熱を注いだ
◎その形原本町は土地不足解消のため大正末年から昭和4年にかけて海岸の埋め立て工事が行われ、土地造成後に造られた道路の建設費用を萬太郎氏が寄附した
◎埋立地は「三浦町」と名付けられた
◎萬太郎氏は昭和16年没、石像は昭和19年の建立(なぜ戦時中にこのようなものを?)

 地図を見ると三浦町の地名は小字として今なお生きています。

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 このような見事な石像を作ったのはやはり岡崎の石工なのかなと思ったら、地元の石工・杉山喜平治の名前が刻まれていたので驚いた。おお、形原にも名工がいたのか!
 そこではたと気が付いた。このレベルの石像を作ることができる人ならば、二宮金次郎もお手の物ではないか?

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 そこで「そう43号」でやった「東三河の小学校の二宮金次郎を全部撮って載せる」という無謀な企画のために撮影させてもらった形原小学校の金次郎像の画像を見直してみたところ、うーん、ちょっと作風が違うかなあ…。
 もしこの金次郎が杉山喜平治の作品であることが判明すれば、金次郎研究業界に一石を投じることになるのだが。何か調べる術はなかろうか(そんなこと調べてどうするという話もあるけど)。

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 ついでに書いておくと、形原小学校にはなぜか二体の金次郎像があり、もうひとつは陶製です。どうゆう事?
 杉山喜平治のことはぜんぜん調べておらず、なんとなく郷土史等にも記載がなさそうな気がするので、もしこの人について何か知っている人がいたらぜひ教えてください。

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 ということで、最後は形原・三浦町の船だまり。
(まさ)



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