下伊那の雪

2017年02月09日
 今日は雪が降りそうですが、そんななか女性取材記者はカメラマンAさんとともに取材で飯田へ出掛け、御苦労さんです。かくいう自分も1月には自分も雪でたびたび取材に難儀しました。
 まず8日。下伊那・遠山郷の上町で行われる「御祝い棒」の取材日に、長野県南部は大雪。
 現地へ向かうべくカメラマンMさんと国道151号を北上していたところ、豊根村最北の中村集落の先で道に雪が積もりはじめ、新野峠のかなり手前で車がストップ。Mさんが持参したチェーンを坂の途中で取り付けなんとか峠を越えられたのですが、その先も雪が降りしきり、現地に辿り着くまでえらい時間がかかった。
 雪景色の伊那谷はこれまでほとんど経験したことがなく、実に新鮮でありました。

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 雪景色の鶯巣である。

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 雪景色の平岡である。
 できることなら立ち止まって雪景色を堪能したいところでしたが、ひたすら雪道でスピードが出せず行事の開始に間に合うか微妙だったので、助手席から撮影しただけであった。

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 上町の「御祝い棒」は夜の行事で、しかもけっこうな雪。この行事については3月10日発刊の「そう」54号をご覧ください。
 で、行事が終わって飯田まで出たら中央道が通行止めで、急遽ホテルに泊まるハメに…。新年一発目の取材からこんなんでは、今年はたぶんロクな年ではないだろう。

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 翌朝、中央道の通行止めは解除。チェーンのまま高速に乗ったところ、園原IC手前のでチェーンを外すよう案内が出て、初めてチェーン着脱所に進入。レア体験ができたのでまあよしとしよう。
(まさ)
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桜町駅の観察

2016年05月28日
 シリーズ終了と言いながらまだ飯田ネタですが、ストリート名称チェックで市街北部の桜町をうろついたついでに、飯田線の桜町駅も観察してみました。昔ながらの駅舎が残っているのですが、JR東海でよく見られる壁面の新建材がちょっと興をそぐので(別名、パッとサイデリア駅舎)、今までじっくり見てこなかった。
 改めて眺めると、ここ、もしかすると駅構造観点では文化財クラスではないか?

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 駅舎入口に取り付けてある「建物資産票」を見ると建築は昭和22年12月で、市街地が灰燼に帰した「飯田大火」の後になります。旧駅舎が燃えて再建したのか、それとも火事とは関係ないのか、調べてこなかったのでわかりませんが。
 ポイントはまず、駅舎が少し高くなっていて階段を登る点。駅舎玄関には庇が大きくせり出し、横には駅舎の三分の二ほどの大きさがある上屋付き、シンプルな小駅ながら風格を感じさせます。この上屋は小荷物用か?そして駅舎の傍らにはタクシー呼び出しボックス。まさしく田舎の駅の完璧な構造!

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 ボックスの中にはハンドルが付いた専用電話が!脇に置かれた「週刊漫画TIMES」がまた味わい深さを引き立てる。

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 さらにその横にはブロック状のガラスを贅沢に使ったトイレが!昭和50年代の標準形という感じ。

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 ホームに上がれば柱の列がなんと美しいことか。

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 そしてポスト&ショボい駅名プレートより目立つオリジナルのサイン。いつ、誰が、なんのために設置したんだ。
 郷土研究レベルの高い飯田市なら、これら全部ひっくるめて文化財価値を見出してくれることと思います。
(まさ)
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タウンサインの研究0068

2016年05月26日
 飯田ではもうひとつついでに、鼎のストリート名称もチェックしてみました。
 鼎は飯田市街の丘の下にある東西に長い地区。旧下伊那郡鼎町が飯田市に合併したのが昭和59年と遅かったこともあってか、飯田市街から至近なのにいまだにどことなく独立した町のような雰囲気を持っています。

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 鼎の街灯サインは、写真左上に見えるものが基本形。ササユリと思われる花(旧町花?)と地名(大字)の組み合わせ。下茶屋のほか上茶屋、切石でも同じものを発見。

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 大字以外のストリート名称は三ヶ所で確認できました。一つは地区の最東端に位置する「東鼎通り」。新飯田橋南詰から先の国道151号にこの街路灯サインが設置され、土偶のようなナイスなロゴがあしらわれています。

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 地区の中ほど、つまり鼎駅の付近には二つの商店街組織があるようで、ひとつがこの「鼎中平商栄会」。

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 もう一つが「鼎文化センター通り商栄会」と、なかなかシブいストリート名称を名乗っています。どっちかを銀座通り、どっちかを中央通りにしてもよさそうなもんですが、文化センターが鼎でもっともシンボリックな存在だったのでしょう。

160525-6.jpg※クリックで拡大します

 でもって、例によってストリート名称マップを作成したところで、三遠南信のローカル銀座&その周辺シリーズはこれにてオシマイ。
(まさ)
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飯田の教育

2016年05月25日
 三遠南信の最高峰図書館、飯田市立中央図書館で銀座のことを調べていると、飯田にあった「二本松遊廓」のことが書いてある資料にも出くわしたので、ついでに見に行ってみました。
 場所は市街北側。伝馬町一丁目から東へ伸びる中之町の通りをずんずん進んだ突き当たりで、住所表記でいうと「飯田市二本松」の区画がそのまま遊廓跡になるようです。

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 飯田は河岸段丘上の緩い傾斜地に市街地が広がっていますが、二本松が位置するのは丘の外れ。なるほど、の立地です。街路はほぼ往時のままのようですが、遊廓跡を思わせる遺物は皆無で、現在は普通の住宅地になっています。
 二本松遊廓に関しては、飯田市美術館と柳田國男伊那民俗学研究所が編集した「飯田・上飯田の民俗1-飯田市地域史研究事業民俗報告書6」に詳しく書かれています。ここから歩みを拾ってみますと、明治15年開楼-戦時中に休楼-昭和24年再開-売春防止法の施行より一ヶ月ほど早い昭和33年2月18日廃楼。店は休楼までは10軒ほど、廃楼時は5軒。
 この資料には、実際に通った経験のある人への聞き取り調査も掲載されており、たいへん興味深い内容です。大平(伊那と木曽を結ぶ街道沿いにあった宿場町で今は廃村)出身の昭和5年生まれの方のコメントが面白い。

「昭和二十年代後半に度々通った。当時は大平に棲んでいたが、行きたくなると気がはやって飛ぶように山を下った。炭を作っていたので、支払いの足しに担いでいった。炭の元は充分に取ったと思う。」

 炭で女郎買い!?粋だねェ。山ばかりの伊那谷だけに、この方のように飛んで山を下り二本松に駆け込んだ男は多かったことでしょう。
 それにしても、遊廓の調査と記録を市が関係するオフィシャルな報告書に収録するというのは、さすが郷土研究がハイレベルな飯田です。遊廓の記録をロクに残していない豊橋あたりとは意識の高さが段違いと言わざるを得ない。

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 繁華街の伝馬町から二本松遊廓へは、この中ノ町を通ります。いわば遊廓へのアクセス道路。この町名、吉原のメインストリート「仲之町」から取ったのかと思ったらそうでもないらしく、「江戸町と馬場町の間に町屋であったから初め中小路と呼んでゐたが、後中ノ町と言うようになったのであろう」(村沢武夫『大火前の飯田』/昭和23年)という。

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 この通りには、昭和13年に建てられた見事な洋風建築の「下伊那教育会館」があります。遊廓至近に教育関連機関というのもなかなか凄い。「ここを遊廓へ行こうとする青少年の防波堤にしよう。そして我々教職者も頻繁に見回りを…ヒヒヒ」という発想があったことは想像に難くない。いや知らんけど。
(まさ)
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タウンサインの研究0067

2016年05月21日
 昨日の続きで飯田市街地。
 飯田市街のストリート名称や商店街名称は、現行地名がほぼそのまま踏襲されているため、三遠南信の他市町のように古地図や資料を駆使して解析する必要はありません。数少ない例外がピアゴ飯田駅前店横のこの通り。

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 右奥の白く大きな建物がピアゴ、写真左側が中央通り四丁目、右側が東和町一・三丁目になるこの商店街は、その名も「ユニー通り商店街」。

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 ユニーのブランド名が消えて久しいが、いまだにその名がこうして生きていようとは!
 教委発行の「飯田・上飯田の歴史 下」によると、ユニー飯田駅前店の開店は昭和49年。ルーツは知久町にあったマルサンという老舗商店で、ユニーの前身である西川屋の傘下に入り知久町でスーパーを開店し、次いで駅前に移転したとのこと。開店当日は飯田線に乗って郊外からも続々客が押し寄せたそうな。
 一週間後には銀座三丁目に西友飯田店もオープンし、この年は飯田の商店街の大転換期だったようです。この時期の地方都市における商業状況(大規模店の進出と既存商店街の衰退開始)の典型例といったところ。
 以下、飯田市街で見かけた商店街&街路灯サインをいくつか。

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 ユニー通りと同じく歩道アーケード用サインのある、通り町一丁目。通り町は一から三丁目までありますが、城下町時代は一から順に番匠町、池田町、田町と称していました。村澤武夫著「大火前の飯田」によると大正10年、これらの町の協議により「通り町」に改称されたとのこと。新町名の由来はこれには書いてありませんが、知久町と広小路(のちの銀座)に対抗すべく連合したのでしょう…か?

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 以前も載せましたが、伝馬町の歩道アーケード用サイン。ユニー通りや通り町に比べて色使いが明るい。

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 飯田線桜町駅前から伝馬町まで続く桜町通りのサインは、上の三つよりも新しい。

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 知久町一丁目の街路灯用サインは、ちょっと凝ったデザイン。

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 松尾町一丁目は行燈風街路灯に松と一のデザイン。

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 銀座の新旧サインには人形があしらわれていますが、これは昭和54年から続く人形劇フェスタ(当初は人形劇カーニバル)に由来するもの。
 他のストリートのサインもだいたい押さえているのですが、アップが面倒だしそんなに書くこともないのでこのへんで…。
(まさ)
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